2016/08/09

芭蕉の落胆「人声や此道帰る秋の暮」

松尾芭蕉は元禄7年10月12日に大坂(大阪)で亡くなっている。
旧暦の10月12日といえば、晩秋から初冬に差し掛かった時期である。
芭蕉は亡くなる前まで句作を続けていた。
句に「秋の暮」という語が使われるのは、そのころの季節が秋だったからであろう。
「秋の暮」には、「秋の夕暮」のイメージと「秋の終わり」というイメージが感じられる。

9月26日に芭蕉が、大坂新清水の料亭「浮瀬(うかむせ)」で詠んだり書き改めたりした句に「秋の暮」が出てくる。

此道や行く人なしに秋の暮
松風や軒をめぐって秋暮れぬ
そして、
人声や此道帰る秋の暮

「此道や行く人なしに秋の暮」は、9月23日執筆の、「意専」と「土芳」への連名宛て書簡の最後に添えた句のひとつ「此道を行く人なしに秋の暮」を書き改めたもの。

尚、9月25日執筆の「曲翠」宛て書簡の最後にも「此道を行く人なしに秋の暮」の句を添えて、『「人声や此道かへる」とも句作り申し候。』とある。
「人声や此道帰る秋の暮」の「草稿」は、9月25日以前にあったのだろう。

人声や此道(このみち)帰る秋の暮

この句は、「此道を行く人なしに秋の暮」の代替案として考えた句とされている。

『各務支考の「芭蕉翁追善之日記」によれば、芭蕉が支考に「人声や此道・・・・」と「此道や行人・・・・・」とのふたつの句を示したという。
「此二句の間、いづれか」と芭蕉が支考に問う。
支考は、「此道や行人・・・・・」の方が、すぐれていると意見を申し述べる。
阿叟(あそう:翁:芭蕉のこと)も「私もそう思う」と言ったので、「此道や行人・・・・・」を半歌仙として振り分けた。』

上記(『』内)は、「芭蕉翁追善之日記」を読んだ私の意訳であるが・・・・。

さて、このふたつの句の違いは、「帰る」と「行く」である。
「帰る」には「人声」の主の人影があって、「行く」には人影が見当たらない。

旅の途上の芭蕉からすれば、「その道を帰る人はいるが、行く人はいない」というふたつの句の光景は同じに見える。
芭蕉が思い描いたのは、此の道の先には自身をも含めて誰もいないという光景なのだろう。

そして、「秋の暮」で歩みが止まる。
いろいろな人の声が、芭蕉の耳に届く。
その声は、ともに歩んできた人たちの声のようでもある。
声の主たちは、晩秋の夕暮を背にして、歩いてきた道を帰っていく。

道の先では、季節は暮れ、秋の日が暮れようとしている。
それは、今現実に芭蕉が見ている道の先の秋の夕暮れである。
落胆の風景であり、無念の風景である。
だが、芭蕉の憧憬がそれらの感慨を追い払う。

此道や行く人なしに秋の暮

皆が帰ってしまって、人声が途絶えた夕暮の「此道」へ、明日にでも旅立ちたいという芭蕉の憧憬が伝わってくる句だと私は感じている。
芭蕉の劇は、落胆から憧憬へと暗転する。

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