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2017/04/30

北八甲田連峰高田大岳東尾根「山腹」をスキー散歩

林道の奥に雛岳が見える。
北八甲田黒森山麓付近の国道394号線には、90度近いカーブが2箇所ある。
その2箇所にはさまれた区間は、距離にして650メートルぐらい。
ほぼ直線になっている。
この直線道路を西に向かって走ると、目の前に高田大岳のカッコいい姿を拝むことが出来る。
まだ雪をかぶっている東尾根がオイデオイデしている。

2017/04/28

「ここに幸あり」異聞

若い頃知合った人のなかに、面白い男がいた。
彼は、酒に酔うと歌をうたいだす癖があった。
そんな人は世間に大勢いるが、彼の場合その歌い方がちょっと変わっていた。

彼の十八番は「荒城の月」。
寮の一室で親交のある者が集まって酒を飲むとき、彼の口からは決まってこの歌が出た。
「はるこうろうの はなのえん」までは「荒城の月」の節なのだが、歌い進むほどにメロディーが変化してくる。
「めぐるさかづき かげさして」にくると、メロディーにやや変化が生じ、「むかしのひかり いまいずこ」では完全に違う歌のメロディーになってしまっていた。

2017/04/26

蜻蛉の藻に日を暮す流れかな

昔、まだ田んぼに農薬がたくさん撒かれていなかった頃、田んぼの水路にはたくさんの水生昆虫が暮らしていた。
私が子どもだった頃の津軽地方の村においては、そうだった。
トンボの幼虫であるヤゴも、そんな水生昆虫のひとつ。

子どもの頃は、トンボのことを津軽地方の方言で「だんぶり」と呼んでいた。
夏の終わり頃、だんぶりが水面スレスレに飛びながら「打水産卵」を行っている姿を何度も目撃したことはあったが、その卵がヤゴになるということは、なかなか信じられなかった。

2017/04/25

日本人はなぜ桜の花が好きなのか

青空の下、満開の桜。
「花は好きですか?」と問われれば、大部分の日本人は「好きよ。」とか「嫌いではないね。」とか言うに違いない。
花は、日常生活の様々な場面で好んで飾られるものだから。

では、数ある花のなかで、特別桜が好まれるのはなぜなのだろう。
これにはいろいろな意見があるらしいが、私は桜の花が平凡であるからだと思っている。

2017/04/16

北八甲田連峰雛岳西側山麓で快適なスキー散歩を楽しむ

箒場から眺める本日の雛岳。
北八甲田連峰は、田茂萢岳、赤倉岳、井戸岳、大岳、小岳、硫黄岳、石倉岳、高田大岳、雛岳と、スキー滑降に適した斜面を持っているピークが間近に点在している。
その各ピークの山裾は、なだらかな傾斜地になっており、残雪期のスキー散歩に適している。

2017/04/15

若草に口ばしぬぐう烏かな

「口を拭う」という言い回しを聞くことがあるが、それは江戸時代にもあったのだろうか。
「口を拭う」なんて、どことなく感じが悪い。
現代語の「拭う」には、「除き去る」や「消し去る」という意味がある。

現代では「口を拭う」とは、何か悪いことをしたのに素知らぬふりをするという意。
盗み食いの後、口元を拭って食べた痕跡を消し去る行為からきている慣用句だという。
「口を拭う」は、どちらかというと食べ物が不足がちだった古い時代の言い回しのような気がする。

凡兆の生活空間スケッチ「五月雨や苔むす庵のかうの物」

「漬物」は発酵することで香りがよくなってくることから、室町時代には「香の物」と呼ばれるようになったという。
現代では、糠漬けなどは「糠漬け臭い」と言われ、糠漬けの味はともかく、その匂いはあまり歓迎されない。
漬物の匂いの代表格は沢庵漬け。
私の周辺には、沢庵漬けが発している匂いを「良い香りね」とおっしゃる方もいるが、それは少ない。
好みの程度の違いはあっても、現代ではそういう傾向にある。

2017/04/02

爽快な急斜面、北八甲田「雛岳」北尾根

「箒場岱コース」の99番指導票付近から雛岳を眺める。
好天に恵まれた日曜日。
今日は、北八甲田連峰の雛岳へ。

凡兆の生への賛歌と愛着「明ぼのやすみれかたぶく土龍」

「あけぼの」といえば春。
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、・・・」は、「枕草子」の冒頭の文章として有名である。
そのため、「あけぼの」と聞くと春を連想する方も多いのではなかろうか。
下記の凡兆の俳諧も、季語が「すみれ」で春の句となっている。

明ぼの(あけぼの)やすみれかたぶく土龍(うごろもち)
野沢凡兆

2017/04/01

凡兆の対比的一体感「くだけたる船の湊やほととぎす」

俳諧に対する私の感想文は、「私ならこう思う」というもの。
であるから、私の感想文には、私なりの物の見方・考え方が如実に反映している。
よく言えば、独自の視点。
悪く言えば、偏った見解。

だが、「どう思おうが私の勝手」というものではない。
取り上げた俳諧と私の作文が、ほんの少しでも共鳴するようでなければ、感想文を書く楽しみは無い。
詩とか小説とか映画とか絵画とかの創作文化の享受者が抱く感想とは、そういうものではあるまいか。
触れたものに、感想をもつというささやかな楽しみ。

くだけたる船の湊やほととぎす
野沢凡兆

江戸時代の季節感覚「川水や汐つき戻すほととぎす」

凡兆の「ほととぎす」の句

またしても凡兆の「ほととぎす」の句
凡兆の「ほととぎす」の句には、「ほととぎす」が唐突に登場する句が多いと、私は感じている。
その句を読むと、まるで取ってつけたような「ほととぎす」と出会うことになる。
これはどういうことだろうと思っていたのだが、遅まきながらあることに気がついた。

不覚にもそれは、今まで凡兆の「ほととぎす」の句を記事にしてきて、まったく考えもしないことだった。
それは、現代を生きている私と、江戸時代に暮らしている人間とでは、季節の言葉(ほととぎす)に対する感覚がまるで違うのではないかということ。

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