芭蕉の無常「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」
芭蕉にはふたつの風景が見えている。
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声
無数の蝉が嵐のように鳴き盛る風景と、音も無く静まり返った風景。
喧騒と静寂のふたつの風景を対比させ、そのなかで、夏の一日を鳴き暮らす命の営みを浮かび上がらせようとしている。
地上に出た蝉が、成虫として生きている期間は、現代では2週間~3週間だといわれている。
私が子どもの頃は、蝉の地上での寿命は1週間だといわれていた。
芭蕉の時代は、その寿命が、もっと儚いものだとされていたかもしれない。
松尾芭蕉
句の前書きに「無常迅速」とある。
「無常迅速」とは、現世の移り変わりがきわめて速いこと、そして、人の死が早く来ることの意であるとか。
特に「無常」とは、あらゆるものは生死の繰り返しであるという考え方のこと。
芭蕉は、蝉の「生」と「死」のふたつの風景を見ていたのだろう。
この句は芭蕉47歳のときの作とされている。
47歳といえば、「おくのほそ道」の旅が終わって一年後の年。
亡くなる年の4年前の作である。
「無常迅速」とあるように、自身の人生もそのようなものだという思いが強くあったのかもしれない。
「野ざらしを心に風のしむ身哉」という漠然とした思いよりも鮮明にあったのかもしれない。
芭蕉は、蝉の「生」と「死」のふたつの風景を見ていたのだろう。
この句は芭蕉47歳のときの作とされている。
47歳といえば、「おくのほそ道」の旅が終わって一年後の年。
亡くなる年の4年前の作である。
「無常迅速」とあるように、自身の人生もそのようなものだという思いが強くあったのかもしれない。
「野ざらしを心に風のしむ身哉」という漠然とした思いよりも鮮明にあったのかもしれない。
夏を精一杯鳴いて生きている蝉には「生」の風景しか見えていない。
芭蕉は、そういう蝉の風景を見つつ、もう一方で蝉の鳴き声の途絶えた風景をも見ている。
芭蕉の耳に届いている「蝉の声」には、「やがて死ぬ」という「けしき(予兆)」は感じられない。
だが、芭蕉の目には静寂の風景が見えている。
そして、そういう芭蕉を見ている「無常迅速」という「目」を、芭蕉は感じていた。
芭蕉が蝉を見ているように、芭蕉もまた「無常迅速」によって見おろされている存在である。
「やがて死ぬ」の「やがて」は、「すぐに」とか「ただちに」とかの意。
さらに、「そのまま」とか「引き続いて」という意味も「やがて」にはある。
「蝉は志半ばで倒れる」という思いが、芭蕉にはあったのかもしれない。
あんなに懸命に鳴いていた声が、そのまま途絶える。
いつのまにか静寂になる。
「蝉の声」は芭蕉にとって、「なにかを訴えている声」であり「なにかを念じている声」であり「なにかを問いかけている声」であったのかもしれない。
その思いや考えを抱いたまま、志半ばで倒れる。
何かヒントをつかみかけたまま、「やがて死ぬ」。
何かをわかりかけたまま、「やがて死ぬ」。
それは、悔しいとか無念であるとか儚いとかいうよりも、「無常迅速」ということなのだ。
「やがて死ぬ」というドキッとするような直截的な表現には、蝉の風景とともに、自身の風景をも見ているのだという芭蕉の覚悟が含まれているように私は感じている。
<関連記事>
◆松尾芭蕉おもしろ読み
そして、そういう芭蕉を見ている「無常迅速」という「目」を、芭蕉は感じていた。
芭蕉が蝉を見ているように、芭蕉もまた「無常迅速」によって見おろされている存在である。
「やがて死ぬ」の「やがて」は、「すぐに」とか「ただちに」とかの意。
さらに、「そのまま」とか「引き続いて」という意味も「やがて」にはある。
「蝉は志半ばで倒れる」という思いが、芭蕉にはあったのかもしれない。
あんなに懸命に鳴いていた声が、そのまま途絶える。
いつのまにか静寂になる。
「蝉の声」は芭蕉にとって、「なにかを訴えている声」であり「なにかを念じている声」であり「なにかを問いかけている声」であったのかもしれない。
その思いや考えを抱いたまま、志半ばで倒れる。
何かヒントをつかみかけたまま、「やがて死ぬ」。
何かをわかりかけたまま、「やがて死ぬ」。
それは、悔しいとか無念であるとか儚いとかいうよりも、「無常迅速」ということなのだ。
「やがて死ぬ」というドキッとするような直截的な表現には、蝉の風景とともに、自身の風景をも見ているのだという芭蕉の覚悟が含まれているように私は感じている。
<関連記事>
◆松尾芭蕉おもしろ読み