床に来て鼾に入るやきりぎりす
「きりぎりす」とは、今の「キリギリス」のことではなくて、今の「コオロギ類」の古称であるらしい。
古典に出てくる「きりぎりす」は、現代の「コオロギ類」のことであると、何かの本で読んだ記憶がある。
江戸時代頃は、現在の「キリギリス類」の昆虫は、「ハタオリ」と呼ばれていたという。
太宰治の有名な短編小説に「きりぎりす」がある。
女性の「話体」で書かれた小説で、「おわかれ致します。あなたは嘘ばかりついていました・・・」という文句で始まる。
その流れるような文章には多少のユーモアも交っていて、私には読みやすい小説だった。
小説の題名となっている「きりぎりす」は最後のほうにやっと出てくる。
ともあれ、「こおろぎ」も「きりぎりす」も同じ虫を示していると私は感じている。
同一の虫の呼び方の違いは、生き方の違いを滑稽的に表現しているのかもしれない。
滑稽なほどに成金趣味の夫。
「貧乏になればなるほど、私はぞくぞく、へんに嬉しくて、」と異様に、清貧な生活に憧れる妻。
その妻が、夫の生き方を、もの悲しい「きりぎりす」に例えているのである。
これは滑稽と悲哀の対比と、その融合の物語なのではあるまいか。
「きりぎりす」と言えば、もうひとつ。
イソップ寓話のひとつの「アリとキリギリス」が思い浮かぶ。
イソップは、紀元前の古代ギリシャの人とされている。
それが、日本の江戸時代初期には「伊曾保物語」として出版されていたというから、好奇心旺盛な芭蕉は、「伊曾保物語」を読んでいたかもしれない。
だが、「伊曾保物語」では「アリとキリギリス」では無く、原作に近い「蟻と蝉の事」となっており、キリギリスは登場していない。
日本の「イソップ物語」に「アリとキリギリス」が登場するのは、明治時代に入ってからのことであるらしい。
ともあれ、「題材」に取り上げられることの少なくない「きりぎりす」である。
床に来て鼾に入るやきりぎりす
松尾芭蕉
元禄7年9月、芭蕉51歳の作。
前書に「又洒堂が、予が枕もとにていびきをかき候を」とある。
芭蕉が大坂の洒堂(しゃどう)宅に泊まったときに作った句と思われる。
芭蕉が、大坂高津の宮の洒堂亭を仮の旅宿としたのは9月9日。
翌夜は之道(しどう)宅に宿泊したとされる。
芭蕉は、対立しあう門弟、洒堂と之道の仲裁を目的として、体調不良をおして大坂へ出向いたのだった。
9月25日に、芭蕉は膳所の「正秀(まさひで)」宛て書簡を執筆している。
それを、来坂中の「游刀」に託したという。
この書簡のなかで芭蕉は、「之道・洒堂両門の連衆打ち込みの会相勤め候。是より外に拙者働きとても御座なく候。」と書いて、自分の無力を嘆いている。
掲句は、この書簡に添えられた3句のなかのひとつである。
前書に「又洒堂が・・・・」とあるように、洒堂の鼾は相当なものだったのだろう。
その洒堂の床の近くで「きりぎりす(コオロギ)」が鳴いている。
エンマコオロギは、小鳥の鳴き声のような高い音を立てる。
カマドコオロギの鳴き声は、バッタに近く「チリチリチリ・・・」とか「キリキリキリ・・・」とか聞こえる。
句の「きりぎりす」がカマドコオロギだったとしたら、もの悲しい鳴き声である。
近くに寝ていると、ただやかましいだけの睡眠妨害の洒堂の鼾。
それに「きりぎりす」のもの悲しい鳴き声が加わる。
それを聞いていた芭蕉は、すっかり悲しくなってしまった。
自身の身体の不調や、一門の対立や離反のこと。
それらのことが、小説「きりぎりす」に登場する妻のように悲しくなってしまったのだ。
おっと、これは逆だね。
芭蕉の「床に来て鼾に入るやきりぎりす」の句や「イソップ寓話集」の「アリとキリギリス」をヒントに太宰治は「きりぎりす」を書いたのかもしれない。
時代は、そのように進行しているのだ。
などと、芭蕉の「きりぎりす」をキーワードに、いろんなことが頭に思い浮かんだ。
それらをまとめると、「鼾」は滑稽で「きりぎりす」は悲哀。
「床に来て鼾に入るやきりぎりす」
「滑稽」と「悲哀」の対比を描いて自身の感情の空間を押し広げ、芭蕉はいっときその中へ逃げ込もうとしたのではあるまいか。
芭蕉は元禄七年十月十二日に亡くなっている。
掲句は、亡くなる一か月ほど前の句であるとされている。
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古典に出てくる「きりぎりす」は、現代の「コオロギ類」のことであると、何かの本で読んだ記憶がある。
江戸時代頃は、現在の「キリギリス類」の昆虫は、「ハタオリ」と呼ばれていたという。
太宰治の有名な短編小説に「きりぎりす」がある。
女性の「話体」で書かれた小説で、「おわかれ致します。あなたは嘘ばかりついていました・・・」という文句で始まる。
その流れるような文章には多少のユーモアも交っていて、私には読みやすい小説だった。
小説の題名となっている「きりぎりす」は最後のほうにやっと出てくる。
「電気を消して、ひとりで仰向に寝ていると、背筋の下で、こおろぎが懸命に鳴いていました。縁の下で鳴いているのですけれど、それが、ちょうど私の背筋の真下あたりで鳴いているので、なんだか私の背骨の中で小さいきりぎりすが鳴いているような気がするのでした。この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。」
太宰治「きりぎりす」より抜粋。「こおろぎ」を「きりぎりす」に変えたのは、「きりぎりす」のほうがもの悲しさを感じられるからだろうか。
ともあれ、「こおろぎ」も「きりぎりす」も同じ虫を示していると私は感じている。
同一の虫の呼び方の違いは、生き方の違いを滑稽的に表現しているのかもしれない。
滑稽なほどに成金趣味の夫。
「貧乏になればなるほど、私はぞくぞく、へんに嬉しくて、」と異様に、清貧な生活に憧れる妻。
その妻が、夫の生き方を、もの悲しい「きりぎりす」に例えているのである。
これは滑稽と悲哀の対比と、その融合の物語なのではあるまいか。
「きりぎりす」と言えば、もうひとつ。
イソップ寓話のひとつの「アリとキリギリス」が思い浮かぶ。
イソップは、紀元前の古代ギリシャの人とされている。
それが、日本の江戸時代初期には「伊曾保物語」として出版されていたというから、好奇心旺盛な芭蕉は、「伊曾保物語」を読んでいたかもしれない。
だが、「伊曾保物語」では「アリとキリギリス」では無く、原作に近い「蟻と蝉の事」となっており、キリギリスは登場していない。
日本の「イソップ物語」に「アリとキリギリス」が登場するのは、明治時代に入ってからのことであるらしい。
ともあれ、「題材」に取り上げられることの少なくない「きりぎりす」である。
床に来て鼾に入るやきりぎりす
松尾芭蕉
元禄7年9月、芭蕉51歳の作。
前書に「又洒堂が、予が枕もとにていびきをかき候を」とある。
芭蕉が大坂の洒堂(しゃどう)宅に泊まったときに作った句と思われる。
芭蕉が、大坂高津の宮の洒堂亭を仮の旅宿としたのは9月9日。
翌夜は之道(しどう)宅に宿泊したとされる。
芭蕉は、対立しあう門弟、洒堂と之道の仲裁を目的として、体調不良をおして大坂へ出向いたのだった。
9月25日に、芭蕉は膳所の「正秀(まさひで)」宛て書簡を執筆している。
それを、来坂中の「游刀」に託したという。
この書簡のなかで芭蕉は、「之道・洒堂両門の連衆打ち込みの会相勤め候。是より外に拙者働きとても御座なく候。」と書いて、自分の無力を嘆いている。
掲句は、この書簡に添えられた3句のなかのひとつである。
前書に「又洒堂が・・・・」とあるように、洒堂の鼾は相当なものだったのだろう。
その洒堂の床の近くで「きりぎりす(コオロギ)」が鳴いている。
エンマコオロギは、小鳥の鳴き声のような高い音を立てる。
カマドコオロギの鳴き声は、バッタに近く「チリチリチリ・・・」とか「キリキリキリ・・・」とか聞こえる。
句の「きりぎりす」がカマドコオロギだったとしたら、もの悲しい鳴き声である。
近くに寝ていると、ただやかましいだけの睡眠妨害の洒堂の鼾。
それに「きりぎりす」のもの悲しい鳴き声が加わる。
それを聞いていた芭蕉は、すっかり悲しくなってしまった。
自身の身体の不調や、一門の対立や離反のこと。
それらのことが、小説「きりぎりす」に登場する妻のように悲しくなってしまったのだ。
おっと、これは逆だね。
芭蕉の「床に来て鼾に入るやきりぎりす」の句や「イソップ寓話集」の「アリとキリギリス」をヒントに太宰治は「きりぎりす」を書いたのかもしれない。
時代は、そのように進行しているのだ。
などと、芭蕉の「きりぎりす」をキーワードに、いろんなことが頭に思い浮かんだ。
それらをまとめると、「鼾」は滑稽で「きりぎりす」は悲哀。
「床に来て鼾に入るやきりぎりす」
「滑稽」と「悲哀」の対比を描いて自身の感情の空間を押し広げ、芭蕉はいっときその中へ逃げ込もうとしたのではあるまいか。
芭蕉は元禄七年十月十二日に亡くなっている。
掲句は、亡くなる一か月ほど前の句であるとされている。
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