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藤崎町にある唐糸御前史跡公園で岩木山を遠望

2017/11/09
リンゴ畑の中に看板が建っている。
国道7号線で藤崎町を通るたびに「唐糸御前史跡公園」という道路案内標識が気になっていた。
どんな史跡があるのだろう。
「唐糸御前」という方の立派な館でも建っているのだろうか。
そんな訳で、史跡見物に立ち寄った。

弘前方向に向かって国道7号線(羽州街道)を走り、藤崎の舟場交差点を右折して国道339号線に入る。
国道339号線を2kmぐらい走ると、右手リンゴ畑の端に上の写真の看板が建っている。
その角を右折。
230mぐらい進むと、右手に公園の駐車場がある。
駐車場の道路側には、下の写真のようなシャレた看板が建っている。
駐車場の広さは、乗用車13~15台分ぐらい。

リンゴ畑のリンゴを撮影。赤く色づいた無袋フジ。

公園入口の看板。看板の奥に岩木山。
駐車場から公園内に入ると、左手に公衆トイレがある。
トイレの横に、「藤崎町の生い立ち」と題した、下の写真の看板が建っている。
以下の文章は、その転載。
 藤崎付近は、平安時代の終り頃に滅んだ安倍氏の流れをくむ「安藤(安東)氏」が本拠地を築き津軽でもっとも早く拓けた所だといわれています。水陸の交通の要衝である藤崎は、安東氏の退去の後も、南部氏・津軽氏の領国経営の拠点となり、代官所や藩の米穀倉庫(御蔵)が置かれていました。
 明治二十二年の町村制施行により藤崎村は近隣の村を合併し、また矢沢等十二の村が合併して「十二里村」ができましたが、二つの村は互いに密接な関係を保ち続け、昭和三十年に合体合併して現在の姿になりました。
 藤崎は、歴史の古い町、りんごや畑作の農業がいち早く開花した町、日本一のりんご「ふじ」の生まれた町、交通の便利な町として発展を続けています。
「藤崎町の生い立ち」の看板。
藤崎町のホームページの「藤崎町の紹介」>「藤崎町のプロフィール」>「町のあゆみ」にはもう少し詳しく歴史についての記載がある。
以下はその抜粋。
 旧藤崎町は津軽で最も早くに開けた土地であり、縄文晩期の土器などが発掘されていることから、先史時代から人が住んでいたものと考えられます。
 前九年の役で(1051年)源頼義・義家を棟梁とする軍勢が、奥州の豪族・安倍氏を討ち、破れた安倍貞任の遺児・高星丸が藤崎に落ち延びて、のちの藤崎城を築き、安東氏を興したと伝えられていることから、藤崎は「津軽の歴史の発祥地」と言われています。
 安東氏は鎌倉時代、岩木川水上の要衝、肥沃な土地を誇る藤崎を拠点に勢力を拡大、十三湖に進出し、強靭な水軍と船団を背景に日本海を雄飛し、北奥州の覇者として君臨しました。藤崎では、鎌倉との往来を偲ばせる「唐糸御前の伝説」や、南北朝時代のものと推定される6基の板碑が見つかっており、鎌倉の影響を受けて、文化的に高い水準に達していたと考えられます。
 15世紀半ば、南部氏の進出により安東氏が津軽から退去した後は、南部氏の支配するところとなり、16世紀終わりの津軽(大浦)氏台頭以後は、藩政時代を通じてその支配するところとなりました。江戸時代は、藤崎組の首村として、代官所・鷹待場(幕府などに献上する鷹を捕獲する場所)・御蔵(米穀の集積と積み出しの基地)・伝馬(物資や文書の輸送基地)など、重要な公共施設が設けられていました。
町のホームページでは、藤崎町の歴史と「唐糸御前の伝説」をちょっと絡ませている。
上記のような文章が、公園入口付近の看板に書かれていてほしかった。
「唐糸御前史跡公園」で真っ先に目にする看板が「藤崎町の生い立ち」なので、ちょっと面食らった。
「唐糸御前史跡」を目指してやってきたのだから。

公園に足を踏み入れたときの率直な感想は、「唐糸御前史跡公園」と銘打っているが、どうしてここが「史跡」なのだろうというものだった。
そう思いながら公園内を散歩していると、公園の奥(南端)の方に朱塗りの木柵で囲まれた「唐糸塚」という場所があった。
その中に「延文の板碑」という白塗り角柱の看板がある。
それによるとこの板碑は「藤崎町指定文化財」になっている。
「唐糸御前の伝説」に関係する板碑が公園の奥に現存しているので史跡なのだなと納得。
「延文」は日本の南北朝時代の元号で、1356年から1360年までの期間を指すという。
その「唐糸塚」の横に、下の写真の「唐糸御前の伝説」という看板が建っている。
公園入口から遊歩道を100mぐらい歩いて、ようやく「唐糸御前の伝説」に辿り着いた。
以下は、看板の文章の転載である。
 唐糸御前は、鎌倉時代、第五代執権・北条時頼の寵愛を受けた女性です。周囲の妬みを受け津軽の藤崎におちのび暮らしていました。
 やがて時頼公は出家して最明寺入道と名を改め津軽にもやってくることを知った唐糸御前は、「落ちぶれて昔の容色が失われてしまった今どうしてお会いできましょうか」と悲しみ、池に身を投げてしまいました。
 通りかかった時頼公は、村人から唐糸御前のことを聞きねんごろに菩提を弔い、鎌倉への帰途七日ごとに寺を建立されました。
 藤崎の唐糸御前をまつる寺はやがて護国寺になり、後に「唐糸山万蔵寺」と改められ、現在弘前市の禅林街に移っています。
 唐糸御前の伝説は、津軽と鎌倉の密接な交流を現在に伝えております。
「藤崎町郷土史会」が発行している「ふるさとの史跡散歩」というリーフレットに「唐糸御前史跡公園」という項目がある。
それによると、「唐糸御前の伝説」を津軽氏は大切にしたという。
そして、系図の中で唐糸御前を津軽氏発祥の部分に位置づけたとのこと。
「唐糸御前の伝説」は津軽(弘前藩)の殿様推奨の伝説であったのだ。

尚「唐糸御前史跡公園」は平成五年に完成。 
「延文四年(1358 年)の板碑」、「 五輪塔」、「明治時代の伝説の碑」、「ハリギリの古木」などが、そのまま保存されているという。

奥にある「唐糸塚」が史跡であることはよくわかった。
しかし、公園手前にある日本庭園風の「柳の池」は、いささか説得力に欠ける。
岩木山を借景とした「唐糸御前史跡公園」。
北条氏邸は伊豆半島の北部にあったと伝えられている。
唐糸御前が北条氏邸に滞在していたとすれば、そこから富士山を眺めていたことだろう。
富士山を眺めながら、故郷津軽の岩木山を思い浮かべていたであろうことは容易に想像できる。
逆境に陥った唐糸御前は、富士山を眺めて望郷の思いを募らせ、藤崎に落ち延びた。
今度は津軽富士である岩木山を眺めながら、伊豆の北条氏邸のことや北条時頼のことを思い出す。
岩木山の存在感が、この津軽の伝説にリアリティを添えているように私には思われる。
しかし、出家した北条時頼が諸国を廻ったというのは伝説(北条時頼の廻国伝説)。
唐糸御前のお話は、伝説のまた伝説。
儚い物語だけが実在している。

それは、ともかく。
公園内には桜の木が植えられている。
春の花見の時期に、残雪をかぶった岩木山を眺めながら、公園を散歩するのが良いかもしれない。

公園の奥の方にある「唐糸御前の伝説」の看板

唐糸御前が身を投じたという柳の池が、公園入口の西側にある。奥に岩木山。

「柳の池」から芝生広場の方に向かって歩くと、旅姿の唐糸御前の銅像が目に入る。

唐糸塚。

延文の板碑。

唐糸塚と岩木山。

唐糸塚を背に、広い芝生広場の公園内を眺める。

古木の前にも古い板碑。これは明治時代に造られた伝説の碑であるとか。「唐糸前舊跡」と読める。

唐糸塚に立っているハリギリ(セン)の古木。

岩木山を見ている唐糸御前の銅像。

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