◆蕪村しみじみ

与謝蕪村の俳句に接して、私なりに得た感想、思い描いたイメージ。
このブログ内の、そんな記事を集めたリンク集です。
これらに書いた「感想」は、句の解釈とかを目指したものではありません。
あくまでも私的な視点での「観賞」のようなものです。
興味のあるかたは、下のリンクのページをお開き下さい。

(18)五月雨や滄海を衝く濁水
だが、この光景の背後には、永遠の「繰り返し」があるという蕪村の自然観が潜んでいると私は感じている。

(17)水深く利鎌ならす真菰刈
それは農民たちの情念のようなもので、平穏な農村風景の「視界の外にあるもの」である。

(16)朝がほや一輪深き淵の色
蕪村が消え、私たちが消えても、この「深き淵の色」の「朝がほ」は存在し続けるのではあるまいか。

(15)門を出ればわれも行人秋のくれ
それは、蕪村の溜息。だから、溜息を吐くように句をもらした。

(14)蕪村の内省と芭蕉の発散
「あはれなる」という蕪村の「内省」の言葉に対応するのは、「掻き起こされし」という覚醒の空間に放たれた「発散」の言葉。

(13)与謝蕪村の雛祭り「雛祭る都はづれや桃の月」
雛祭りイベントが、質素な暮らしに彩りをもたらしていた。そんな時代の田舎家を感じさせる蕪村の句であると思う。

(12)山は暮れて野は黄昏の薄かな
暗いススキ野の中で凍え死んでしまうのではないかという不安。

(11)鶯の声遠き日も暮れにけり
だが、「今」という、この存在の瞬間は、失ってはいない。

(10)堤と尾根と遠い家「春風や堤長うして家遠し」
もともと旅に終わりも始まりもない。心のどこかに、遠くかすんだ懐かしの家があるだけ。

(9)家路を急ぐ旅人に初ざくらの出迎え
旅人は、桜の木の黒い幹から浮き出たような桜の花を見つめた。

(8)春雨や暮れなんとしてけふもあり
過ぎていくこの一瞬だけがリアルな存在だ。

(7)遅き日のつもりて遠きむかしかな
現在は、刻々と過去へ取り込まれていく。と同時に、現在は刻々と未来へも取り込まれていく。

(6)「葱買て枯木の中を帰りけり(蕪村)」の本歌取り遊び
裸木のように枯淡としながらも、存在感のある冬の句だと思う。

(5)桜の花の落下
紅梅と馬の糞は馴染まない。それをくっつけた蕪村の心境に、なにやら苛立ちのようなものを感じるのは私だけだろうか。

(4)「狐火」は冬の季語
蕪村の「狐火」の句は、「幻想世界」と「現実世界」を彷徨っているように見える。

(3)雪の中の生命「斧入れて香におどろくや冬木立」
蕪村は、自身の生命に触れた思いであったかも知れない。

(2)宿かさぬ火影や雪の家つづき
そんな焦燥感をいっとき忘れるほどの、冬の美しい夕景色であったのかもしれない。

(1)雪降る冬の夜の孤独
冬の孤独感が癒されて良かったなぁという思いが湧くから、私はこの句が好きである。