2017/03/06

一茶の観察眼「やれ打つな蠅が手をすり足をする」

小林一茶と言えば、松尾芭蕉や与謝蕪村と並んで江戸時代を代表する俳諧師とされている。
しかしこれは、江戸時代当時の評価ではなく、明治時代に正岡子規が一茶を広く世に知らしめたことによるという。

明治時代から遠く離れた現在、一茶の世に知られている印象は、芭蕉や蕪村のとはちょっと異なる。
世間に広まっている一茶の印象は、小さなものや弱いものに対して思いやりをもって接する心を俳句にしたというもの。
そういう人物像の方が、俳諧よりも前面に出ている。
俳諧そのものよりも、一茶の句から感じられる作者の「性格」の方が、世間の好評を得ているのだ。

そういう優しい心の持ち主の一茶だから、こういう優しい句を作れるのだという評判が、先行してしまっているように感じられる。
そこが、芭蕉や蕪村に対して抱かれる世間の印象とは、ちょっと異なるところ。
これは、自然描写を基調とした芭蕉や蕪村の作風と比較して、一茶の作風が、強い慈愛の感情を表に出している一面が目立つことによるのかもしれない。

「やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり」とか「我ときて遊べや親のない雀」とかの人口に膾炙している句が、一茶の孤独だが心優しい人物像を象徴しているように評されている。

やれ打つな蠅(はえ)が手をすり足をする
小林一茶

掲句も同様。
蝿だって一生懸命に生きているのだからむやみに殺してはいけない。
そういう弱者に対する思いやりの気持ちが込められている句であるという感想が一般的だ。
手足を擦り合わせて、必死に命乞いをしている姿を強調して、「やれ打つな」と殺生をする者を戒めている。
私も以前は、そういう見方をしていた。

もちろん蠅が命乞いをしているわけではないし、一茶が蠅を擬人化して描いているわけでもない。
一茶の句を読んだ後世の人々が、そういう注釈を加えているに過ぎない。

私は、芭蕉の句を読み進める作業を続けるなかで、「独自の観点」で句を読むようになった。
その「独自の観点」で照らすと、一茶の掲句には、別な影が現れる。

私は以前、芭蕉の「よく見れば薺花咲く垣根かな」という句について書いた。
その記事で、私はこの句にふたつのイメージを感じたと書いている。
  1. 「周囲に有るモノをよく見て句を詠みなさい」という芭蕉の教え。
  2. ただ漫然と生い茂っているようなナズナの群生が、実は垣根を形成していたという意外な驚き。
(1)のイメージも(2)のイメージも、「よく見れば」という視点で貫かれている。
その視点は、一茶の「やれ打つな」にも貫かれているように思う。
見ることにおいては、ロングショットもクローズアップも思いのままの芭蕉だった。
それに比べて「やれ打つな」で使った一茶のカメラレンズはマクロっぽい。
一茶は、そのマクロレンズ的な観察力で様々な小動物・昆虫を見つめ句にしている。
芭蕉を「眺める詩人」と仮定すれば、一茶は「仔細に見つめる詩人」と言えるかもしれない。

蠅はたしかに不潔で汚らしい虫だが、叩いてしまえばもっと汚くなってそれでお終いである。
俳諧を志さない者ならそれでいいかもしれないが、俳諧師はそれではいけない。
目の前のものを観察する目を持たなければいけない。
こんな蠅だってよく見れば、手足を擦って興味深い動作をしている。
よく見れば、顔だってちょっと可愛い。
対象を「打つ」という一言で片づけてしまわないで、もっと好奇心を持って、いろんな角度から見てみろよ。
打たないと何が見えてくるのか、そこをもっとよく見ることが大切だ。
そういう一茶の声が聞こえそうな句であると感じている。

一般の人が気づかないところを注視する。
そういう冷徹な観察を行うのが俳諧師なのだという強いメッセージが感じられる。

「やせ蛙まけるな一茶これにあり」や「我ときて遊べや親のない雀」、そして「やれ打つな蠅が手をすり足をする」などに共通しているのは、憐みの情だけではないだろう。
この戯画的な光景を描いているのは、ほのぼのとした好人物の憐憫の情ではなく、冷徹な観察力なのではあるまいか。

ほのぼのとした表情で、今にも死にそうな「やせ蛙」をじっと見つめる一茶。
親からはぐれて弱った「雀」をじっと見つめる一茶。
叩き潰されることも知らずに、手足を擦り合せることに夢中になっている「蠅」を見つめる一茶。
こういう一茶の視線に、私は哀憐の情をあまり感じない。
むしろ、どういう風に描いてやろうかという一茶の貪欲な「創作熱」みたいなものを感じている。

例によって、これも私の空想に過ぎないのかもしれないが。

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