2017/04/15

若草に口ばしぬぐう烏かな

「口を拭う」という言い回しを聞くことがあるが、それは江戸時代にもあったのだろうか。
「口を拭う」なんて、どことなく感じが悪い。
現代語の「拭う」には、「除き去る」や「消し去る」という意味がある。

現代では「口を拭う」とは、何か悪いことをしたのに素知らぬふりをするという意。
盗み食いの後、口元を拭って食べた痕跡を消し去る行為からきている慣用句だという。
「口を拭う」は、どちらかというと食べ物が不足がちだった古い時代の言い回しのような気がする。

若草に口ばしぬぐう烏(からす)かな
野沢凡兆

カラスは、べとついたものや脂っこいものを食べた後、クチバシを木の枝や電線や地べたにこするつけて拭う習性があるという。
クチバシは、鳥が生きていくうえで重要な器官。
物をつかむ道具であり、物を運ぶ道具であり、物を作る道具でもある。
時には身を守る武器にもなる。

クチバシを欠損した鳥は、食事もできず、水を飲むこともできない。
クチバシを失うという致命傷を負った鳥は、やがて餓死する。
カラスに限らず鳥は、自身の大切なクチバシの手入れを怠らないことだろう。
そういう意味では、全ての鳥がクチバシを拭うのではないだろうか。

掲句では、その「口ばし」がクローズアップされている。
「若草」で「口ばし」を「ぬぐう」「烏」を詠った平易な句ではあるが、「口ばしぬぐう烏」というところが妙になまなましい。
叙景句のようでもあり、「烏」を擬人化した主観の強い句でもあるような。

この「口ばしぬぐう烏」には、どことなく感じの悪い雰囲気がある。
それが、悪事の証拠隠滅を企んでいるカラスを連想させるのかもしれない。
もし、「烏」を擬人化しているとすれば、そういう雰囲気になるのではないだろうか。

飛んでいるカラスや、木の枝に止まっているカラスではない。
俳諧の題材としてよく取り上げられる「寒烏(かんがらす)」や「初鴉(はつがらす)」ではない。
「口ばしぬぐう烏」には、俳諧師と「烏」との距離の近さが感じられる。
俳諧師が間近にカラスを見ているような。
それが「口ばしぬぐう」を妙に生々しく感じてしまう理由なのだろう。

「烏」は、習性でクチバシを拭っているのか。
それとも、盗み食いをした証拠隠しにクチバシを拭っているのか。
鳥は、クチバシの手入れを怠らないであろうから、「口ばしぬぐう」鳥はカラスでなくても良さそうなもの。
「若草」に対応しそうな好印象の鳥は、ほかにもありそうなものだが、なぜ「烏」なのだろう。
しかし、盗み食いをした証拠隠しにクチバシを拭っている鳥といえば「烏」が一番に思い浮かぶ。
人の生活の周辺に生息していて、どちらかというと「悪感度」が強いカラス。

掲句は、「悪感度」の強いカラスの、生々しい存在感がリアルに表現されている。
「もの」を描いて「物」の存在感を表現しようとした凡兆らしい句であると、私はひそかに思っている。

余談になるが、この句は「猿蓑」には載っていない。
「猿蓑」以後凡兆は、蕉門メンバーである山本荷兮(やまもと かけい)や越智越人(おち えつじん)、岡田野水(おかだ やすい)らとともに、芭蕉に対して批判的なグループに加わったと言われている。
掲句に、揶揄や皮肉を感じないこともないのだが、はたしてどうなのだろう。

若草に口ばしぬぐう烏かな

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