考える ことば

 私たちはいろいろな「ことば」を使って、他人と意見を交換し合い、仕事の指示を出し、仕事の指示に従い、他人の考えを判断したりして生活しています。これは日常のありふれた行為です。私たちが最も使い慣れた道具のように親しんでいるのは「日常生活の」わかりやすい「ことば」です。
 
 政治や経済や様々な学問の世界には、その世界専門の非日常的な「ことば」があって、それは日常の「ことば」では翻訳不可能なもののようです。
 仕事には仕事専用の、一般の人には馴染みの無い専門語があって、その仕事の世界では非日常的な専門語で情報交換した方がずっと効率的だったりします。
 
 私たちは日常的な「ことば」だけに支配されているわけではありません。多くの政治や経済や法律の「ことば」に縛られてもいるのです。ですから、日常的な「ことば」しか知らない私たちは、多くの意味を知らない「ことば」に意味も無く拘束されている、ということがあるかもしれませんね。

 深く静かに考えてみれば、日常のことばで見えてくる現実もあると思いたいのです。非日常も、日常の範疇だと思います。多くの「ことば」は日常の動作や、目に見えるもの、目に見えることから生まれ育ったのだと思います。

 私たちは、日常の「ことば」の意味を、いろいろな生活の場面で深く知らされています。日常の「ことば」ほど私たちの思考を支えているものは無いのではないでしょうか。
 私たちは、最も使いやすい道具で、ある程度の、政治や経済や専門職の現実を理解できると思います。日々物事について、「ことば」で考える習慣があるのですから。
 そうでなければ、私たちは、意味もわからすに支配されっぱなしという状態になりかねないかも知れません。

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