号令と松尾芭蕉の句「閑さや岩にしみいる蝉の声」

学校生活での、始業時と終業時の定期的な儀式である「起立 礼 着席」の号令は、ごく一般的で、これを知らない人は少ないだろう。
この号令がかかる前と後では、生徒であった私達は、まったく違う世界に身を置いているのだった。

授業前のリラックスした休憩時間と授業中のやや緊張ぎみな未知の時間を区切っているのが「起立 礼 着席」である。

私達は普段の世界から起立し、今まで過ごして来た世界に別れを告げ、新たに身を置く世界に目を向けて一礼し、未知の世界に着席する。

起立とは礼をするための前提条件であり、着席とは礼を終えてこれから物事に真剣にとりかかるという意思表示なのだ。
この「起立 礼 着席」の号令の段取りによく似た句(俳諧)を、最近発見した。

閑さや岩にしみいる蝉の声  松尾芭蕉
「おくのほそ道」の旅で、芭蕉が山形の立石寺に参詣した時に作った句として、あまりにも有名である。
この句の解釈をめぐって様々な論争がわき上がったことでも有名だ。

「閑さ」と「蝉の声」は矛盾するとか、この蝉はアブラゼミかニイニイゼミか、とか。
句の意味を解釈する上で、それらの論争は必要だったのだろうが、句の意味をあまり追究しないタイプの読者(俳句の鑑賞者)にとっては不要の論議のように思える。

その句に触れたとき、意味よりも先に広がるイメージの世界を楽しむタイプの人々にとっては、句の意味を知らなければその俳句を観賞できない、ということは無い。
まして、意味の世界を深める必要も無い。

芭蕉の号令に従って、芭蕉の創造したイメージの世界に、鑑賞者が個々に着席するのだ。
それは、イメージの体操のような、清々しいものでもある。

松尾芭蕉は45歳の時に、「おくのほそ道」の旅に発ったと言われている。
その行程は約2,400キロメートル、日数は約150日間であったらしい。
45歳でこれだけの大旅行をやってのけたのだから、よっぽどの健脚であったに違いない。

今風に言えば、体育会系。
体育会系の号令には、説得力があるのかないのか・・・・。

それは、さておき。
「しずけさや」という上五の号令で、私達は、芭蕉の描こうとする閑静な世界に起立する。
なぜ起立するのかという、その意味を問う疑問の無い世界に、私達は立たされてしまうのだ。
閑静であるということが、これから芭蕉が描こうとしているイメージ世界の前提条件となっている。

「いわにしみいる」の中七は、閑静な世界を描くための筆を運ぶ方向である。
私達は「いわにしみいる」方向に目を向ける。
目の前にそびえる大岩の向こうに視線を誘導されるのだ。

そして「せみのこえ」に着席する。
蝉の合唱、もしくは独唱の森に身を置いている自身を発見する。
その発見を持ち帰ろうと、森の中から立ち上がる。

「せみのこえ」から立ち上がって、帰り方向の「いわにしみいる」に目を向ける。
すると、蝉の声の合唱が、まるで岩に染み込むほどに強く激しく私達の耳を襲う。
蝉の声だけが音として存在する世界。

その音は、聴覚的な存在よりも視覚的な存在へと転じて、流水のように岩の表面に染み込む。
私達はそういう「しずけさや」の中に着席し、ほっと安堵する。
未知の世界に足を踏み入れ、新しい世界に触れた安堵感で充足する。

そんな号令の仕掛けが、「閑さや岩にしみいる蝉の声」にあるように感じられる。

これが、句の意味をあまり追究しないタイプの読者(俳句の鑑賞者)である私の、短詩型文学にはまったく素人な私の感想である。
それは、私なりの俳諧の楽しみ方のひとつとなっている。


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