雪の上の落葉
雪の上に突き刺さったケヤキの落葉 |
見上げると、ケヤキの木の枝は、まだたくさんの枯葉を残している。
あたりの木々は、すっかり枯葉を解き放ったのに。
もう1月も終わりだというのに、一体いつまで枝に付いているのだろう。
そう思っていたら、「落葉が雪に」という布施明の歌を思い出した。
「人恋しさのあまり 書き始めた日記に・・・・」で始まる歌だ。
久しぶりにYouTubeで聴くと、まだ若い頃の布施明は声量も豊かで、気持ちの良い歌いっぷりだ。
「・・・・落葉が雪に そしてうららの 小川の水に 流れるように・・・・」
という歌詞があるから、この歌は残雪の消えない、春先の時期の落葉の歌なのだろう。
この歌の最後は「どうして僕は ここにいるのだろう」で終わる。
この「僕」は、人恋しさのあまりに日記を書き始めた「僕」なのだが、私には、雪の上の落葉のように思える。
どうしてケヤキの落葉は、今頃、雪の上にいるのだろう。
あの強い吹雪の夜にも落下せずに、細い枝先にへばりついていた枯葉が、この無風の曇空に下で、はらはらと落下する。
その答えは布施明の歌には無い。
若い当時、長髪にベルボトムのスラックス、気持ちの良い歌いっぷりで、「積木の部屋」や「カルチェラタンの雪」を歌い上げていた布施明の歌には、物悲しい内容のものが多い。
その物悲しさでは「落葉が雪に」も負けてはいない。
「押し花残るページに思い出を語る」
この「押し花」と「落葉」は一対となって、物寂しいイメージを強調しているようだ。
2番の歌詞、「ただけだるい言葉で」の「言葉」も、「落葉」と一対のイメージのように思える。
だが、その物悲しさも、「そしてうららの 小川の水に 流れるように」という歌詞で、ちょっと明るさを帯びてくるように感じられて、いくらか救われる。
さて、ケヤキの枯葉はいつまで枝についているのだろう、と先に書いたが、「落葉が雪に」の歌のように、春先の残雪の頃まで細い枝先に付いているのかも知れない。
それが融けかかった残雪の上に、はらはらと落ちる。
新緑の頃、やっと任を解かれて、舞い落ちる落葉もあるかもしれない。
そんな木の上の枯葉達を、白い雪の上の落ち葉は眺めている。
枝という束縛から解放された思いが、雪の上の落ち葉にあるのだろう。
「人恋しさのあまり 書き始めた日記に・・・・」で始まる歌だ。
久しぶりにYouTubeで聴くと、まだ若い頃の布施明は声量も豊かで、気持ちの良い歌いっぷりだ。
「・・・・落葉が雪に そしてうららの 小川の水に 流れるように・・・・」
という歌詞があるから、この歌は残雪の消えない、春先の時期の落葉の歌なのだろう。
この歌の最後は「どうして僕は ここにいるのだろう」で終わる。
この「僕」は、人恋しさのあまりに日記を書き始めた「僕」なのだが、私には、雪の上の落葉のように思える。
どうしてケヤキの落葉は、今頃、雪の上にいるのだろう。
あの強い吹雪の夜にも落下せずに、細い枝先にへばりついていた枯葉が、この無風の曇空に下で、はらはらと落下する。
その答えは布施明の歌には無い。
若い当時、長髪にベルボトムのスラックス、気持ちの良い歌いっぷりで、「積木の部屋」や「カルチェラタンの雪」を歌い上げていた布施明の歌には、物悲しい内容のものが多い。
その物悲しさでは「落葉が雪に」も負けてはいない。
「押し花残るページに思い出を語る」
この「押し花」と「落葉」は一対となって、物寂しいイメージを強調しているようだ。
2番の歌詞、「ただけだるい言葉で」の「言葉」も、「落葉」と一対のイメージのように思える。
だが、その物悲しさも、「そしてうららの 小川の水に 流れるように」という歌詞で、ちょっと明るさを帯びてくるように感じられて、いくらか救われる。
さて、ケヤキの枯葉はいつまで枝についているのだろう、と先に書いたが、「落葉が雪に」の歌のように、春先の残雪の頃まで細い枝先に付いているのかも知れない。
それが融けかかった残雪の上に、はらはらと落ちる。
新緑の頃、やっと任を解かれて、舞い落ちる落葉もあるかもしれない。
そんな木の上の枯葉達を、白い雪の上の落ち葉は眺めている。
枝という束縛から解放された思いが、雪の上の落ち葉にあるのだろう。
まだ枯葉がたくさん付いているケヤキの木。 |
雪に埋もれて凍り付いたケヤキの枯葉。 |