童謡の歌詞「夕焼け小焼け」の「小焼け」という畳語的な方法
ラジオから由紀さおりさんの美しい歌声が流れた。
「夕焼け小焼け」の歌い出しで始まる童謡「赤とんぼ」。
童謡を歌う由紀さおりさんの歌声は、いつ聴いても素晴らしいなと思った。
が、気になったことがひとつ。
「夕焼け小焼け」の「小焼け」って何だろう?
いつも当たり前のように聞き流している歌の言葉だが、どうしたわけか今日は疑問が湧いた。
そこで今から40年ぐらい前に買った岩波書店の広辞苑(第二版補訂版)を開いて調べてみたが、「小焼け」という語は無かった。
次にインターネットで調べてみた。
Weblioという辞書サイトに、三省堂大辞林からの引用で、「小焼け」についての以下の説明がある。
{「夕焼け」と語調をそろえていう語。}
これ以外の説明は無いので、「小焼け」という自然現象を表す言葉ではなく、「夕焼け」の次に配置される修辞的な目的で使われる言葉であるらしい。
その他、「小焼け」については、「夕日が沈んだ後、暗くなる前に空が明るくなること」など、独自の解釈を書いているサイトもあったのだが・・・・。
では、「夕焼け小焼け」と語調をそろえたらどうなるのだろう。
童謡の歌詞であるから、聴いていて心地よくなるとか、歌の流れがリズミカルになるとか。
でも、それだけだろうか。
童謡「赤とんぼ」の作詞者は三木露風(みき・ろふう)。
1921年の作とされている。
これより前の1919年に、中村雨紅(なかむら・うこう)という詩人が「夕焼け小焼け」という童謡を作詞している。
その歌い出しは、「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる」
「赤とんぼ」も「夕焼け小焼け」も、その光景が目に浮かんでくるような詩になっている。
歌を聴く者や詩を読む者に、夕暮れのイメージを思い浮かばせるような。
これより前の1919年に、中村雨紅(なかむら・うこう)という詩人が「夕焼け小焼け」という童謡を作詞している。
その歌い出しは、「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる」
「赤とんぼ」も「夕焼け小焼け」も、その光景が目に浮かんでくるような詩になっている。
歌を聴く者や詩を読む者に、夕暮れのイメージを思い浮かばせるような。
その仕掛けは、「夕焼け小焼け」という言葉の「畳語(じょうご)」的な使い方にあるのではなかろうか。
畳語とはウィキペディアに以下のようにある。
「畳語(じょうご)とは、単語またはその一部をなす形態素などの単位を反復して作られた単語をいい、合成語の一種である。」
畳み掛けるように同じ語を繰り返す。
それによって、より強く、より広大で多大なイメージがかもし出される。
「我々」とか「山々」とか「時々」とか、繰り返すことによって複数を表す言葉に生まれ変わるのはそのせいかも知れない。
私たちは「夕焼け小焼け」と繰り返される言葉によって、より強く、より広大なイメージを呼び起こされる。
私たちの脳裏に、思い出の夕暮れ風景が鮮明に広がるのだ。
似たような言葉の仕掛けに、「仲良しこよし」とか「大波小波」とか「大ばんこばん」とかがある。
それぞれが、童謡とかわらべうたの歌詞である。
ということは、この畳語的な方法は、曲と結びつくことによって、より大きな効果を生むと言えるのでは。
童謡の歌詞「夕焼け小焼け」の「小焼け」には、意味的に夕暮れを表すものは何もない。
「小焼け」の「小」は、大きさを表す「小」ではなく、語調を整える接頭語としての「こ」なのではあるまいか。
「夕」という情景を表している語。
「焼け焼け」という畳語。
「小」という「焼け」につく接頭語。
これらが組み合わさって、より鮮明な夕暮れの情景を私たちに思い浮かばせているように思う。