芭蕉の視線「道の辺の木槿は馬に喰はれけり」
白いムクゲの花。 |
木槿(ムクゲ)はアオイ科の落葉低木。
観賞用は、大きいもので4メートル近くまで成長する。
しかし野生の木槿は10メートルを越えるぐらいまで大きくなるものもあるという。
しかし野生の木槿は10メートルを越えるぐらいまで大きくなるものもあるという。
木槿の花は、朝咲いて夕方には萎みかける。
初夏に花が咲き始めると、一本の木で毎日次々と咲き続ける。
初夏に花が咲き始めると、一本の木で毎日次々と咲き続ける。
木槿は、生命力の強いのが特徴であるとのこと。
梅雨の頃から秋まで、木槿は花を咲かせているという。
道の辺(みちのべ)の木槿(むくげ)は馬に喰(く)はれけり
松尾芭蕉句の前書きに「馬上吟」とある。
旅の途中、馬に乗って移動中のときの句であるらしい。
馬に乗ってと言っても、芭蕉が手綱をさばいているわけではない。
手綱をとっているのは、馬方(馬子)のオヤジ。
芭蕉は馬方に「乗り賃」を払って乗っているわけである。
木槿は日向を好む植物。
道路際の林縁で咲いていたのだろう。
その木槿の花を、芭蕉の乗った馬がパクリと食べた。
あるいは、手綱をとっている馬方が、自分の愛馬に木槿の花を食べさせた。
馬が木槿の花を食べるのかどうか、私にはわからない。
でもこの句は、馬は木槿の花を食べるという前提のもとにつくられている。
それと、もうひとつ。
この句は、かなり「叙事的」である。
「・・・・の・・・・は・・・・に・・・・されてしまった。」という滑らかな語り口の、叙事的な句になっている。
ところで、詩は、「叙事」と「抒情」で出来上がっているといわれる。
とすれば、掲句の「抒情」となる芭蕉の感情は、どのようなものなのだろう。
- 馬が木槿を食べるなんて面白い。
- 馬に木槿の花を食べられて残念だ。
- あんまり道草を食う馬なのでイライラする。
- 馬方よ、馬に木槿を食べさすなよ。
などなどが思いつく、
また、「喰はれけり」の「けり」を詠嘆の助動詞だとすると、芭蕉は木槿を食べた馬を目撃しなかったのかもしれない。
「道端に木槿の花が見当たらない。これはきっと馬に食われてしまったのだなあ。」という馬上の芭蕉の嘆きか。
「馬に乗って旅をするなんて、あまり風雅とは言えないなぁ」と芭蕉は思ったのかも。
叙事的な句は、出来事そのまんまである。
「だっ、だから、どうしたってんだい!」と心穏やかでない御仁もいらっしゃることだろう。
出来事の裏にある芭蕉の抒情を、推測してみるのも面白い。
私は、調子の良いリズミカルなこの句に、流れるような芭蕉の視線を感じる。
「空(空想)」→「道」→「道のほとり」→「木槿」→「馬」→「木槿」→「道のほとり」→「道」→「空(空想)」と流れるように。
そう感じるのは、幻から句が生まれ、それがまた幻へと消えていくという、芭蕉に対する私の空想(思い込み)のせいなのかもしれない。
芭蕉は、幻の世界に木槿の花を登場させ。
その花が、現実の馬に食われて消えてしまう。
芭蕉の視線は、現実と幻の世界を行きつ戻りつ。
道の辺の木槿は馬に喰はれけり
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「馬に乗って旅をするなんて、あまり風雅とは言えないなぁ」と芭蕉は思ったのかも。
叙事的な句は、出来事そのまんまである。
「だっ、だから、どうしたってんだい!」と心穏やかでない御仁もいらっしゃることだろう。
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私は、調子の良いリズミカルなこの句に、流れるような芭蕉の視線を感じる。
「空(空想)」→「道」→「道のほとり」→「木槿」→「馬」→「木槿」→「道のほとり」→「道」→「空(空想)」と流れるように。
そう感じるのは、幻から句が生まれ、それがまた幻へと消えていくという、芭蕉に対する私の空想(思い込み)のせいなのかもしれない。
芭蕉は、幻の世界に木槿の花を登場させ。
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