師いわく、書くこととは
師が言われた。
なんでも書けばイイ、と。
もうむずかしい本を読む時間もあるまい。
むずかしい事を書く脳もあるまい。
簡単なものを書けばイイ。
簡単なものこそ、多くの物好き達が求めているものなのじゃ。
些細なものでもイイ、書き続けることが大事。
書けば甘露の日和ありじゃ。
世の中に些細なものなどない。
と、もうひとりの師が言い放った。
道端の石ころも、草も、枯れ枝も、それぞれ意味があってそこにあるのだから。
粗末にあつかってはならぬ。
そこにあるという意味が重要なのだ。
だから重要なのは書くことではなく、意味があることを知ることなのだ・・・・と。
仮に前者をい先生、後者をろ先生とさせていただこう。
い先生は、「書く」という行動が大事だとおっしゃっている。
ろ先生は、「意味」を求めることが重要だとおっしゃっている。
ここに3人目の師がいらっしゃる。
この方を、は先生と呼ばせていただこう。
は先生は、こうおっしゃった。
今の時代は、書かれなくてもいいことが書かれ、書くほど無意味なのに、それが続けられている、と。
つまり、意味もなく書かれたものが過剰に出回っている、と。
どうやらインターネットのことらしい。
だから、ただ書くことだけに意味を求めてはいけないとおっしゃっている。
ところで、文字や言葉は、その対象物を照らし続けることをやめない。
たとえば、「東」と言う言葉は、「東」の方向を照らし続ける。
まるで文字や言葉が、自身で運動しているように。
その自己運動が、私には文章の原型のようなものに思えるのだ。
言葉に導かれて文章が綴られる。
言葉がおいでおいでして、文の行列を連れ歩くような。
とすれば、この世に文字があるかぎり、物事は書かれ続ける。
その書かれたものに意味を見出すのは、実は読む側だったりする。
体験や感情の蓄積である私自身が、私なりに言葉の運動を受け止めているのだ。
実に、書かれたものを動かしているのは、書いた者よりも読む者なのかもしれない。
言葉を運動させているのは、言葉を読む者とも言える。
そういう意味では、い先生も、ろ先生も、は先生も、おっしゃっていることは情報としてそれぞれ正しいように思えてくる。
それぞれ、書かれたものには読む価値があると思う。
さて、Google先生はどうのようにお考えだろうか。