「悲しくてやりきれない」の並列と「川は流れる」の対比
カーラジオから懐かしい曲が聞こえた。
「悲しくてやりきれない」
ザ・フォーク・クルセダーズの歌。
私が高校生のころ、よくラジオから流れていた。
作曲はメンバーの加藤和彦。
作詞は、なんとサトウハチローだった。
ザ・フォーク・クルセダーズと言えば、歌いだしが「おらは死んじまっただ」で始まる「帰って来たヨッパライ」がデビュー曲。
コミックソングのグループかなと思っていたのだが、「悲しくてやりきれない」のような感傷的な歌も歌うのだなと思ったものだった。
今、この歌を聞くと思い出すのは、仲宗根美樹が歌う「川は流れる」。
この歌は、私が小学生の頃流行った歌。
そのころは、仲宗根美樹の独特な歌声に聞き入るばかりで詞の意味なんか考えなかった。
この悲しい歌を、彼女は、のびのびと清々しく歌っていた。
「悲しくてやりきれない」の詞は独特だ。
歌は「胸にしみる空のかがやき」で始まる。
この出だしの歌詞が、歌全体の情感を表現しているように私には思える。
それは、「自然の現象」に感情移入してセンチメンタルな気持ちにおちいっている若者の姿だ。
歌は「今日も遠くをながめ 涙をながす」と続く。
遠くの空を眺めて涙をながす理由はなんだろう。
失恋とか友の死とか肉親の死とか社会への失望とか。
あるいは歌の文句のように、わびしくゆれる自身の夢を、あてもなく流れる白い雲に重ねたり。
あるいは、森の中を吹き抜ける風の音に、感じ入ってしみじみと嘆いたり。
そしてそのことが、若者にとって、やるせない心のモヤモヤだったり、限りないむなしさだったり、もえたぎる苦しみだったりする。
そういうふうに歌は続く。
歌の最後は、「このもえたぎる苦しさは 明日も続くのか」で閉じられている。
「自然の現象」が持っているある種の悲壮なムードや、人生の出来事が原因で発生したセンチメンタルな心情が、希望の持てない人生観へと直結していくような歌である。
そういうムードやポーズが、当時の若者に受け入れられたのだろう。
作詞家でもあったサトウ八チローが、当時の若者が抱いていた心情を、巧みに歌詞に盛り込んだのかもしれない。
「川は流れる」はどうだろうか。
歌は「病葉を今日も浮かべて」で始まる。
おそらく、この歌を聞いて初めて「病葉(わくらば)」という言葉を知った方が多いのではなかろうか。
「病葉」の意味はともかく、その字面は、病み衰えたような侘しい情感にあふれている。
作詞は、「あざみの歌」や「下町の太陽」、「哀愁列車」、「ネオン川」の作詞者で知られる横井弘という方。
都会のビルの谷間を流れる川と、「望み破れて哀しみに染まる瞳」の都会暮らしの人を対比させる形で詞が作られている。
「錆びついた夢のかずかず」を抱いて暮らす人。
一方、ビルの「谷間をひとすじに川は流れ」、「人の世の塵にまみれてなお生き」ている。
この対比だ。
人は、都会の暮らしに哀愁を感じて、ビルの間を「吹き抜ける風に泣いている」。
だが、こうして悲嘆に暮れている人も、「黄昏の水のまぶしさ」に思い直す。
そしてこの歌は、「嘆くまい 明日は明るく」で閉じられている。
ふたつの歌の最後の詞に「明日」が出てくるところが面白い。
ふたつの歌には「明日」だけではなく「今日も」も共通して出てくる。
「川は流れる」には「病葉を今日も浮かべて」と、さりげなく最初だけだが、「悲しくてやりきれない」には「今日も」が3回出てくる。
いつまでたっても状況が変わらない。
永遠に続くような悲しい気分がやりきれないのだ。
これに対して「川は流れる」は、川は「昨日も」「今日も」、おそらく「明日も」「病葉を浮かべて」いるだろうが、そのことを「嘆くまい 明日は明るく」と言って、気持ちを切り替えている。
自身を取り巻く状況は変わらないが、そのなかで自身を変えて生きていこうというリアルな気持ちが、「川は流れる」からは伝わってくる。
「悲しくてやりきれない」は、やりきれない気持ちを、風景に重ねて生きて行こうとするセンチメンタルな若者の歌。
それよりも前に作られた悲しくてやりきれない歌は、都会を流れる川の風景に、塵にまみれて生きて行こうというリアルな都市生活者の気持ちを重ねているようで面白い。
どこか似ているふたつの歌、「悲しくてやりきれない」と「川は流れる」。
ふたつの歌の違いは、「明日も」の「も」と「明日は」の「は」という助詞の違い。
「悲しくてやりきれない」の「明日も」は、昨日と今日に同様「明日も」という、いつまでも続く状況の並列。
「川は流れる」の「明日は」には、明日は今までとは違うのだという、過去と将来の対比があるのではなかろうか。
「悲しくてやりきれない」
ザ・フォーク・クルセダーズの歌。
私が高校生のころ、よくラジオから流れていた。
作曲はメンバーの加藤和彦。
作詞は、なんとサトウハチローだった。
ザ・フォーク・クルセダーズと言えば、歌いだしが「おらは死んじまっただ」で始まる「帰って来たヨッパライ」がデビュー曲。
コミックソングのグループかなと思っていたのだが、「悲しくてやりきれない」のような感傷的な歌も歌うのだなと思ったものだった。
今、この歌を聞くと思い出すのは、仲宗根美樹が歌う「川は流れる」。
この歌は、私が小学生の頃流行った歌。
そのころは、仲宗根美樹の独特な歌声に聞き入るばかりで詞の意味なんか考えなかった。
この悲しい歌を、彼女は、のびのびと清々しく歌っていた。
「悲しくてやりきれない」の詞は独特だ。
歌は「胸にしみる空のかがやき」で始まる。
この出だしの歌詞が、歌全体の情感を表現しているように私には思える。
それは、「自然の現象」に感情移入してセンチメンタルな気持ちにおちいっている若者の姿だ。
歌は「今日も遠くをながめ 涙をながす」と続く。
遠くの空を眺めて涙をながす理由はなんだろう。
失恋とか友の死とか肉親の死とか社会への失望とか。
あるいは歌の文句のように、わびしくゆれる自身の夢を、あてもなく流れる白い雲に重ねたり。
あるいは、森の中を吹き抜ける風の音に、感じ入ってしみじみと嘆いたり。
そしてそのことが、若者にとって、やるせない心のモヤモヤだったり、限りないむなしさだったり、もえたぎる苦しみだったりする。
そういうふうに歌は続く。
歌の最後は、「このもえたぎる苦しさは 明日も続くのか」で閉じられている。
「自然の現象」が持っているある種の悲壮なムードや、人生の出来事が原因で発生したセンチメンタルな心情が、希望の持てない人生観へと直結していくような歌である。
そういうムードやポーズが、当時の若者に受け入れられたのだろう。
作詞家でもあったサトウ八チローが、当時の若者が抱いていた心情を、巧みに歌詞に盛り込んだのかもしれない。
「川は流れる」はどうだろうか。
歌は「病葉を今日も浮かべて」で始まる。
おそらく、この歌を聞いて初めて「病葉(わくらば)」という言葉を知った方が多いのではなかろうか。
「病葉」の意味はともかく、その字面は、病み衰えたような侘しい情感にあふれている。
作詞は、「あざみの歌」や「下町の太陽」、「哀愁列車」、「ネオン川」の作詞者で知られる横井弘という方。
都会のビルの谷間を流れる川と、「望み破れて哀しみに染まる瞳」の都会暮らしの人を対比させる形で詞が作られている。
「錆びついた夢のかずかず」を抱いて暮らす人。
一方、ビルの「谷間をひとすじに川は流れ」、「人の世の塵にまみれてなお生き」ている。
この対比だ。
人は、都会の暮らしに哀愁を感じて、ビルの間を「吹き抜ける風に泣いている」。
だが、こうして悲嘆に暮れている人も、「黄昏の水のまぶしさ」に思い直す。
そしてこの歌は、「嘆くまい 明日は明るく」で閉じられている。
ふたつの歌の最後の詞に「明日」が出てくるところが面白い。
ふたつの歌には「明日」だけではなく「今日も」も共通して出てくる。
「川は流れる」には「病葉を今日も浮かべて」と、さりげなく最初だけだが、「悲しくてやりきれない」には「今日も」が3回出てくる。
- 「今日も遠くをながめ 涙をながす」
- 「今日も夢はもつれ わびしくゆれる」
- 「今日も風の音に しみじみ嘆く」
いつまでたっても状況が変わらない。
永遠に続くような悲しい気分がやりきれないのだ。
これに対して「川は流れる」は、川は「昨日も」「今日も」、おそらく「明日も」「病葉を浮かべて」いるだろうが、そのことを「嘆くまい 明日は明るく」と言って、気持ちを切り替えている。
自身を取り巻く状況は変わらないが、そのなかで自身を変えて生きていこうというリアルな気持ちが、「川は流れる」からは伝わってくる。
「悲しくてやりきれない」は、やりきれない気持ちを、風景に重ねて生きて行こうとするセンチメンタルな若者の歌。
それよりも前に作られた悲しくてやりきれない歌は、都会を流れる川の風景に、塵にまみれて生きて行こうというリアルな都市生活者の気持ちを重ねているようで面白い。
どこか似ているふたつの歌、「悲しくてやりきれない」と「川は流れる」。
ふたつの歌の違いは、「明日も」の「も」と「明日は」の「は」という助詞の違い。
「悲しくてやりきれない」の「明日も」は、昨日と今日に同様「明日も」という、いつまでも続く状況の並列。
「川は流れる」の「明日は」には、明日は今までとは違うのだという、過去と将来の対比があるのではなかろうか。