夏の匂い「市中は物のにほひや夏の月」凡兆
太宰治のエッセイ「天狗」に凡兆(ぼんちょう)の句が紹介されている。
太宰ファンは、書き出しの調子に魅了されて、太宰治の「読物」の世界へひきこまれていく。
「天狗」の文章は、凡兆の発句を上げて、流れるように続く。
太宰治の「読物」には、こういう「誘惑」が多いと私は感じている。
凡兆とは、蕉門の門人だった俳諧師「野沢凡兆(のざわぼんちょう)」のことである。
「門人だった」と書いたのは、元禄4年頃、離反し、芭蕉の元を去ったからだ。
凡兆は加賀国金沢出身。
京都で医者として暮らしていたと言われているが、その詳細は不明。
京都で芭蕉と知り合い、妻の羽紅(うこう)と夫婦そろってその門人になったとされている。
凡兆は、芭蕉よりも4歳年上だったという。
「嵯峨日記」によると、元禄4年4月20日に凡兆、凡兆の妻の羽紅、去来(きょらい)が落柿舎(らくししゃ)滞在中の芭蕉を訪ね、一つの蚊帳で皆が一緒に寝て談笑したりしていたようである。
芭蕉は、元禄4年5月5日から6月10日ぐらいまで京都の凡兆宅に滞在している。
このように親交のあった凡兆と芭蕉だが、何時ごろからか、しだいにつき合いが遠のき、凡兆は芭蕉の元を去っている。
その後凡兆は、なんらかの罪を負い、投獄されたりした。
なんらかの罪とは、知人の犯罪に連座したためとも、無実の罪だったとも言われているが、詳細は不明である。
元禄7年10月12日の芭蕉臨終の場や葬儀に、凡兆の名前が見当たらない。
この時は、まだ獄の中だったのだろうか。
獄を出てからは京都を離れ、夫妻ともども生活に困窮したという。
病気に倒れた凡兆の最期は、妻の羽紅が看取ったとされている。
市中は物のにほひや夏の月
野沢凡兆
この句は、発句・連句集「猿蓑(さるみの)」におさめられたもの。
「猿蓑」は芭蕉七部集(俳諧七部集)のなかのひとつで、蕉門の最高峰の句集であるとされている。
元禄4年7月3日に向井去来と野沢凡兆共編、芭蕉監修で発刊されている。
太宰治は「天狗」で、この句を佳句であると称賛している。
「感覚の表現が正確である」と評している。
佳句であるかどうか、私ごときにはわからないが、この句は私の好きな句のひとつだ。
俳諧(俳句)に対する鑑識眼がまるで無い私は、その句が「好きか、そうでないか」という感覚で句に接している。
私が好きだと思う句は、映像が目に見えるように浮かび上がってくる句。
それによって、想像の世界がダイナミックに広がるような句である。
野沢凡兆には、そういう句が多いと感じている。
掲句は、暑さを匂いで表現している。
「物のにほひ」とは、暑い空気の存在感のように感じられるのだ。
夏特有の、暑い空気や蒸し暑い空気を生で感じているような。
そして「物」とは、町の暮らしのなかの「物」、日常見かける様々な「物」である。
その「物」が、夏の生な空気でおおわれている様子が「物のにほひ」として私の脳裏に浮かんでくる。
物の存在が際立つ。
それが夏と言う季節の特性であり、「物のにほひ」なのだと私は感じている。
夏の町が、雑多な空気でおおわれているのに、天空の月は「物のにほひ」の届かないところで清らかに輝いている。
「物のにほひ」でおおわれた地上の町と、天空の清らかな月との対比。
また「物のにほひ」は人々の話し声や呼気や溜息の騒々しさを表している。
宵闇の町の騒々しさと、静かな月との対比。
「地」と「天」、「雑」と「清」、「騒」と「静」。
そんな対比が、この句のイメージを拡げている。
月に照らされた家並みと、夏の空気に漬かった人々の暮らし。
その家並みが、どこまでも続いている町の通り。
そんな風景が思い浮かぶ。
風景は、私の記憶の町並みにまで続いているような気がしている。
「猿蓑」におさめられた「夏の月の巻」は、元禄3年6月上中旬に、京都の凡兆宅での「三吟歌仙興行」で作られたものである。
歌仙のメンバーは、凡兆、芭蕉、去来。
芭蕉は、元禄3年6月の初めに京都に出、同月18日まで凡兆宅に滞在している。
元禄4年5月26日の「猿蓑」編集会議も京都の凡兆宅で行われている。
元禄4年までの幾年かは、芭蕉は京都へ出た時、凡兆宅を定宿としていたという。
「猿蓑」に掲載された凡兆の句は41句。
芭蕉は40句、其角(きかく)25句、去来25句で、凡兆は芭蕉を抜いての掲載句の多さであった。
ちなみに、「猿蓑」に句を撰ばれた俳諧師は108人。
この時の凡兆は、蕉門108人のトップに立ったと言っても過言ではないだろう。
お互いに交流を深め、芭蕉にその才能を認められた凡兆だったが、元禄4年7月の「猿蓑」発刊以降は、蕉門から離れてしまう。
芭蕉の晩年近くは、蕉門からの離反者が相次いだ。
名古屋の山本荷兮(やまもとかけい)、近江膳所の濱田洒堂(はまだしゃどう)、名古屋の越智越人(おちえつじん)など、芭蕉と親しい門人たちが離れていった。
逆に芭蕉から「役立たず」と陰口をたたかれて、嫌われていた各務支考(かがみしこう)は、芭蕉臨終まで師の看護をつとめ、芭蕉の遺書を代筆している。
そんな蕉門の内紛を獄中の凡兆は耳にしたであろうか。
凡兆が出獄したのは元禄11年頃と言われているが、詳細は不明である。
「猿蓑」での活躍は、もはや過去の栄光であった。
生活に困窮し、凡兆は正徳4年の春に病死。
芭蕉が没してから20年後のことである。
芭蕉よりも4歳年上だとすると、75歳ぐらいになっていたことになる。
54歳ごろ入獄してからの21年。
波乱に満ちた生涯と言えるのだろうが、それが不幸であったかどうか。
それは本人のみぞ知る。
太宰治は「猿蓑」に掲載された「夏の月の巻」を失敗作のように書いている。
連句とは、歌仙に参加した俳人が、句の連作によって架空の物語を作っていく「座の文芸」である。
「夏の月の巻」は、凡兆、芭蕉、去来が共同で物語を作っていくという趣向である。
「市中は物のにほひや夏の月」という秀逸な書き出しで始まった「夏の月の巻」。
太宰は、こういうイントロが好きなのだ。
だが、後が続かない。
「流れ」を大切にする太宰からすれば、芭蕉も去来もつまづいてばかりのように見える。
物語作者としての太宰治は、この連句で仕上がりつつあるような、滅茶苦茶な物語が気に入らない。
太宰治は、凡兆と芭蕉や去来との息の合っていないところを指摘している。
京都の凡兆宅で行われた「三吟歌仙興行」のときすでに、蕉風からの凡兆離反の兆しが見えていると、太宰は暗に示したのかもしれない。
「市中は物のにほひや夏の月」
「物のにほひ」という独特の存在感に敏感だった凡兆。
凡兆が離反したとき、芭蕉という存在をどう感じていたのだろうか。
芭蕉と凡兆との、急接近と性急な別れ。
そこに、どんな経緯があったのか。
芭蕉を知るうえでも興味深いことである。
■参考文献
「悪党芭蕉」嵐山光三郎著 新潮社
「芭蕉年譜大成(新装版)」今榮藏著 角川学芸出版
暑い時に、ふいと思い出すのは猿簑の中にある「夏の月」である。「天狗」は、このような書き出しで始まる。
太宰ファンは、書き出しの調子に魅了されて、太宰治の「読物」の世界へひきこまれていく。
「天狗」の文章は、凡兆の発句を上げて、流れるように続く。
いい句である。感覚の表現が正確である。私は漁師まちを思い出す。人によっては、神田神保町あたりを思い浮べたり、あるいは八丁堀の夜店などを思い出したり、それは、さまざまであろうが、何を思い浮べたってよい。自分の過去の或る夏の一夜が、ありありとよみがえって来るから不思議である。と、一気にここまで読むと、もう続きを読まないではいられない。
太宰治の「読物」には、こういう「誘惑」が多いと私は感じている。
凡兆とは、蕉門の門人だった俳諧師「野沢凡兆(のざわぼんちょう)」のことである。
「門人だった」と書いたのは、元禄4年頃、離反し、芭蕉の元を去ったからだ。
凡兆は加賀国金沢出身。
京都で医者として暮らしていたと言われているが、その詳細は不明。
京都で芭蕉と知り合い、妻の羽紅(うこう)と夫婦そろってその門人になったとされている。
凡兆は、芭蕉よりも4歳年上だったという。
「嵯峨日記」によると、元禄4年4月20日に凡兆、凡兆の妻の羽紅、去来(きょらい)が落柿舎(らくししゃ)滞在中の芭蕉を訪ね、一つの蚊帳で皆が一緒に寝て談笑したりしていたようである。
芭蕉は、元禄4年5月5日から6月10日ぐらいまで京都の凡兆宅に滞在している。
このように親交のあった凡兆と芭蕉だが、何時ごろからか、しだいにつき合いが遠のき、凡兆は芭蕉の元を去っている。
その後凡兆は、なんらかの罪を負い、投獄されたりした。
なんらかの罪とは、知人の犯罪に連座したためとも、無実の罪だったとも言われているが、詳細は不明である。
元禄7年10月12日の芭蕉臨終の場や葬儀に、凡兆の名前が見当たらない。
この時は、まだ獄の中だったのだろうか。
獄を出てからは京都を離れ、夫妻ともども生活に困窮したという。
病気に倒れた凡兆の最期は、妻の羽紅が看取ったとされている。
市中は物のにほひや夏の月
野沢凡兆
この句は、発句・連句集「猿蓑(さるみの)」におさめられたもの。
「猿蓑」は芭蕉七部集(俳諧七部集)のなかのひとつで、蕉門の最高峰の句集であるとされている。
元禄4年7月3日に向井去来と野沢凡兆共編、芭蕉監修で発刊されている。
太宰治は「天狗」で、この句を佳句であると称賛している。
「感覚の表現が正確である」と評している。
佳句であるかどうか、私ごときにはわからないが、この句は私の好きな句のひとつだ。
俳諧(俳句)に対する鑑識眼がまるで無い私は、その句が「好きか、そうでないか」という感覚で句に接している。
私が好きだと思う句は、映像が目に見えるように浮かび上がってくる句。
それによって、想像の世界がダイナミックに広がるような句である。
野沢凡兆には、そういう句が多いと感じている。
掲句は、暑さを匂いで表現している。
「物のにほひ」とは、暑い空気の存在感のように感じられるのだ。
夏特有の、暑い空気や蒸し暑い空気を生で感じているような。
そして「物」とは、町の暮らしのなかの「物」、日常見かける様々な「物」である。
その「物」が、夏の生な空気でおおわれている様子が「物のにほひ」として私の脳裏に浮かんでくる。
物の存在が際立つ。
それが夏と言う季節の特性であり、「物のにほひ」なのだと私は感じている。
夏の町が、雑多な空気でおおわれているのに、天空の月は「物のにほひ」の届かないところで清らかに輝いている。
「物のにほひ」でおおわれた地上の町と、天空の清らかな月との対比。
また「物のにほひ」は人々の話し声や呼気や溜息の騒々しさを表している。
宵闇の町の騒々しさと、静かな月との対比。
「地」と「天」、「雑」と「清」、「騒」と「静」。
そんな対比が、この句のイメージを拡げている。
月に照らされた家並みと、夏の空気に漬かった人々の暮らし。
その家並みが、どこまでも続いている町の通り。
そんな風景が思い浮かぶ。
風景は、私の記憶の町並みにまで続いているような気がしている。
「猿蓑」におさめられた「夏の月の巻」は、元禄3年6月上中旬に、京都の凡兆宅での「三吟歌仙興行」で作られたものである。
歌仙のメンバーは、凡兆、芭蕉、去来。
芭蕉は、元禄3年6月の初めに京都に出、同月18日まで凡兆宅に滞在している。
元禄4年5月26日の「猿蓑」編集会議も京都の凡兆宅で行われている。
元禄4年までの幾年かは、芭蕉は京都へ出た時、凡兆宅を定宿としていたという。
「猿蓑」に掲載された凡兆の句は41句。
芭蕉は40句、其角(きかく)25句、去来25句で、凡兆は芭蕉を抜いての掲載句の多さであった。
ちなみに、「猿蓑」に句を撰ばれた俳諧師は108人。
この時の凡兆は、蕉門108人のトップに立ったと言っても過言ではないだろう。
お互いに交流を深め、芭蕉にその才能を認められた凡兆だったが、元禄4年7月の「猿蓑」発刊以降は、蕉門から離れてしまう。
芭蕉の晩年近くは、蕉門からの離反者が相次いだ。
名古屋の山本荷兮(やまもとかけい)、近江膳所の濱田洒堂(はまだしゃどう)、名古屋の越智越人(おちえつじん)など、芭蕉と親しい門人たちが離れていった。
逆に芭蕉から「役立たず」と陰口をたたかれて、嫌われていた各務支考(かがみしこう)は、芭蕉臨終まで師の看護をつとめ、芭蕉の遺書を代筆している。
そんな蕉門の内紛を獄中の凡兆は耳にしたであろうか。
凡兆が出獄したのは元禄11年頃と言われているが、詳細は不明である。
「猿蓑」での活躍は、もはや過去の栄光であった。
生活に困窮し、凡兆は正徳4年の春に病死。
芭蕉が没してから20年後のことである。
芭蕉よりも4歳年上だとすると、75歳ぐらいになっていたことになる。
54歳ごろ入獄してからの21年。
波乱に満ちた生涯と言えるのだろうが、それが不幸であったかどうか。
それは本人のみぞ知る。
太宰治は「猿蓑」に掲載された「夏の月の巻」を失敗作のように書いている。
連句とは、歌仙に参加した俳人が、句の連作によって架空の物語を作っていく「座の文芸」である。
「夏の月の巻」は、凡兆、芭蕉、去来が共同で物語を作っていくという趣向である。
「市中は物のにほひや夏の月」という秀逸な書き出しで始まった「夏の月の巻」。
太宰は、こういうイントロが好きなのだ。
だが、後が続かない。
「流れ」を大切にする太宰からすれば、芭蕉も去来もつまづいてばかりのように見える。
物語作者としての太宰治は、この連句で仕上がりつつあるような、滅茶苦茶な物語が気に入らない。
太宰治は、凡兆と芭蕉や去来との息の合っていないところを指摘している。
京都の凡兆宅で行われた「三吟歌仙興行」のときすでに、蕉風からの凡兆離反の兆しが見えていると、太宰は暗に示したのかもしれない。
「市中は物のにほひや夏の月」
「物のにほひ」という独特の存在感に敏感だった凡兆。
凡兆が離反したとき、芭蕉という存在をどう感じていたのだろうか。
芭蕉と凡兆との、急接近と性急な別れ。
そこに、どんな経緯があったのか。
芭蕉を知るうえでも興味深いことである。
■参考文献
「悪党芭蕉」嵐山光三郎著 新潮社
「芭蕉年譜大成(新装版)」今榮藏著 角川学芸出版