空地でオオハンゴンソウの花が散ってヨシの穂が出た
空地からオオハンゴンソウの黄色い花が消えた。 |
そのせいで、事務所裏の 空地のオオハンゴンソウは、花びらを落としてしまった。
空地の黄色い賑わいが消えてしまったのだ。
オオハンゴンソウは、時期的にちょうど散り時だった。
オオハンゴンソウの花びらが散って夏が終わる。
ヨシが穂を出して秋が始まる。
空地の草むらは、季節の移ろいを映す鏡のようである。
見る者によっては、乱雑でやっかいな雑草の藪。
ある者にとっては、過ぎ去っていく季節の哀愁鏡。
雑草鏡は、過ぎ去っていく季節に哀愁を感じている感傷男を映しているのかもしれない。
しかし、「この叢は、オレの心の鏡だぜ。」とほざいても、いったい誰が頷いてくれることだろう。
台風10号で、黄色い花びらを落としたオオハンゴンソウ。草薮のなかに、その姿が見える。 |
花は、この円錐花序に密集しているという。
下の写真のような穂が花だなんて、にわかには信じがたい。
しかし、こんな花を以前に見たことがある。
それはネマガリタケの花。
ヨシの穂の小穂がネマガリタケの花に似ている。
それもそのはず、ヨシもネマガリタケも同じイネ科である。
そういえば、ヨシの新芽はネマガリタケのタケノコに似ている。
ヨシの新芽であるから「ヨシノコ」か。
来年の春は試食してみることにしよう。
食べた結果、美味しく無かったにしても、ブログのネタぐらいにはなる。
「ヨシノコ」の食レポは、来春に乞うご期待。
ヨシの穂。 |
平安時代の頃であったという。
ところが、アシは悪しを呼び込むので縁起が悪いということになり、この植物をヨシ(良し)と呼ぶようになったとか。
17世紀に西洋の哲学者が「人間は考える葦である」と仰った。
私は高校生の頃まで、この言葉を「人間は考える足である」と覚えていた。
動物はただ足で動き回るだけだが、人間は考えながら動き回る足であると理解していたのだ。
正しくは「人間は考える葦である」と知ったとき、とたんに理解に苦しんだ。
「考える葦」とは何だろう?
葦は何を考えているのだろう?
今になっても、その意味は不明のままである。
事務所裏の空地に生えているヨシを見る度に、誤解していたこの言葉を思い出すのだが、わからない。
「葦だって何かを考えているんだから、人間は葦以上に何かを考えなければならない」ということだろうか。
「何か」とは何か?
なんてことを、もの思う秋。
空地でオオハンゴンソウの花が散ってヨシの穂が出た。
ヨシの花が咲いて、秋になったのだ。
風になびくヨシの穂。 |