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江戸時代の都市のさりげない日常「藏並ぶ裏は燕のかよひ道」

2017/04/19
凡兆は、街なかの風情を詠むのが上手い。
と、素人の私が思ってしまうほどに。
これが凡兆の持ち味なのではあるまいか。
と、素人の私は考えている。

次の句は「市中は物のにほひや夏の月」同様に「猿蓑」におさめられている。
「猿蓑集 巻之四」の「春」のなかにある。

藏並ぶ裏は燕のかよひ道
野沢凡兆

凡兆が生きた時代の、大坂や京都の蔵が並ぶ通りが目に見えるようである。
蔵の前には運河が通っていて、人々が忙しく働いている様子までが思い浮かぶ。
人々のことなど、一語も記されていないのに。
不思議な句である。

当時の都市でのさりげない日常を、さりげなく描いている。
この句を読む人は、高速で飛び交う燕の様子を思い浮かべる。
そして、その燕が飛び交う空間としての街の様子を思い浮かべる。
燕の飛翔に伴って、蔵が並ぶ街の様子が目の前に展開するのだ。

凡兆は、その居並ぶ蔵の街の静かな裏通りを散歩している。
散歩しながら、燕の飛び交う様子を眺めている。
蔵を挟んで、表通りの「騒」と裏通りの「静」の対比を楽しんでいたのかもしれない。

読者は、生き生きと人々が活動する、江戸時代の街並みを空想して楽しむ。
そういう意味では、現代人に好まれる句であるのかもしれない。
デジタルな環境に疲れた読者が、江戸時代に思いを馳せて癒されるのである。

野沢凡兆の出自や没年については、詳しい記録は無いという。
加賀の出身で、京都に出て医師をして暮らしていたと言われている。
江戸時代の京都は、江戸や大坂と並んで、日本で第三の大都市であったとされている。
加賀の地方から出てきた凡兆にとって京都での都会生活はとても新鮮なものであったに違いない。

凡兆が何歳のときに、京都へ出てきたのかは不明である。
野沢凡兆という存在は、蕉門の俳諧師たちや芭蕉と出会ってからが鮮明になる。
凡兆が芭蕉と面識を持つようになったのは元禄元年とされている。
「おくのほそ道」の旅を終えて、元禄三年から芭蕉と凡兆は急激に親交を深めたという。
そして元禄四年七月の「猿蓑」発刊で、凡兆は突如として蕉門のスター的な存在となり、その後は蕉門から離れ、消息も不明なものになっていく。

掲句の「藏」を往時の「俳壇」に置き換えれば、その裏で自由に飛び交っている「燕」は凡兆自身を暗示しているのかもしれない。
凡兆と俳交があったとされる向井去来(むかいきょらい)や室井其角(むろいきかく)、それに江左尚白(えさししょうはく)らの生涯は比較的明らかになっている。
「蕉門十哲」に名を連ねてはいないものの、芭蕉からその実力を評価されていたと思われる凡兆だけが、生涯が不明のままであるのは不思議なこと。

凡兆は燕のように、表に出ることもなく、「俳壇」の裏通りをのびのびと飛んでいたのだろうか。
これは私の空想に過ぎないのだが。
それはそれとして、凡兆もまた芭蕉と並んで、私にとっては魅力的な詩人である。

■参考文献
「野沢凡兆の生涯(芭蕉七部集を中心として)」著:登芳久 さきたま出版会

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