雑談散歩

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白秋の大発見「瓦斯燈に吹雪かがやく街を見たり」

北原白秋は、南国生まれの詩人。
九州の熊本県で生まれ、福岡県の現・柳川市で少年期を過ごした。
後に上京。
東京で暮らすようになった白秋は、冬場に雪を見ることはあったかもしれない。
しかし、雪国によくある「吹雪」を、東京で体験したことがあっただろうか。
そんな北原白秋の「吹雪」を題材にした俳句が面白い。

瓦斯燈(がすとう)に吹雪かがやく街を見たり
北原白秋

平明で率直な句であると思う。
この句には、まるで幻の街に遭遇したような、北原白秋の新鮮な驚きが感じられる。
少年のように驚いて、目を見張った様子が思い浮かぶ。

雪国では、街灯に「吹雪かがやく」のはごく普通に目にする風景である。
ごく普通に目にする風景を句に詠ってはいけないとケチをつけているのではない。
「街を見たり」と、さも大発見をしたような書きっぷりが面白いのだ。

さもあらん。
南国生まれの目には、ガス灯の明かりに輝く吹雪は、美の大発見だったのかもしれない。
白い雪片が、風に吹かれて空中を流れるように飛んでいく。
雪片が筋を描いて流れていく様子は、それだけで美しい。
それがガス灯に照らされると、キラキラと輝いて見える。
ガス灯が街路にズラリと並んでいれば、街中が吹雪にキラキラ輝いているように見える。
白秋が目を見張ったのも無理はない。
そんな風景は、白秋にとって大発見だったに違いない。

だが、雪国に住む私にとっては「瓦斯燈に吹雪かがやく」までは良いが、「街を見たり」はくどい感じがする。
わざわざ「見たり」とつけ加えるのはどうだろうか。
それが雪国の日常なのだから。

見なくても、「吹雪かがやく」は、目に飛び込んでくる。
街灯ばかりではない。
家々の窓から、暗い外へもれる明かりのなかでも、吹雪はかがやいている。

しかし、ちょっとここで素人の私も考えた。
白秋が、列車の旅の途中でこの光景を見たとしたらどうだろう。
まさに列車の窓から「瓦斯燈に吹雪かがやく」街を見たのだ。

旅の途中、南国育ちの旅人が列車から不思議な光景を目撃する。
それは、今まで見たことも無い景色。
ガス灯の明かりのなかで、かがやいているものは放射する光なのだろうか、それとも光に反射している雪なのだろうか。
そんなことを思っているうちに、特別急行列車は市中を抜けて郊外の田園地帯に飛び出す。
もう、「瓦斯燈」は見えない。
「瓦斯燈」の明かりに、吹雪がかがやくのも見えない。

さっきは、たしかに見たのだ。
この素朴な驚きが、この目でそういう街を見たと句に詠ったのだろう。

「瓦斯燈に吹雪かがやく街を見たり」
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