凡兆の賛歌「鶯や下駄の歯につく小田の土」
私はときどきこのブログに、私が関心のある凡兆の句を取り上げて、その感想を書いている。
そういう作業を続けているうちに、凡兆は身近な生活の「もの(物)」を句にして詠う詩人ではないだろうかという感想を強く持つようになった。
そのことは、過去の記事に何度か書いている。
もの(物)の存在感を描く凡兆の感性が、句を読む者にひしひしと伝わってくる。
それが、凡兆の句を読んで得られる感動である。
凡兆の俳諧は、そういう凡兆特有の「生活の風景詩」的な一面を持っていると思う。
鶯や下駄の歯につく小田の土
野沢凡兆
素朴で平易な句である。
厳しい冬が終わり、本格的な春到来の気配を感じてセンチメンタルな気分になっている人にとっては、目頭が熱くなるような感動をよぶ句であると思う。
この句のどこが涙を誘うのか。
それは「鶯」では無い。
「下駄の歯につく小田の土」という句に、読む者はしんみりとくる。
「小田」の「小(を)」は接頭語で、それに付く「名詞」の矮小さを表していると思われる。
こぢんまりとした「田」というようなイメージ。
「小田」には、あまり肥えていない土を連想させるものがある。
そして、こぢんまりとした「田」は、こぢんまりとした農民の暮らしを連想させる。
こぢんまりとした農民の暮らしは、こぢんまりとした庶民の暮らしにつながっている。
こぢんまりとしながらも生き生きとした様子を連想させているのが、「小田の土」という句である。
「小田」にも春がやってくる。
今まで雪の下に隠れていた「小田の土」が、春の陽気に匂っている。
胸を震わせるような、なつかしい匂い。
凡兆は、この「小田の土」に愛着を感じているのではないだろうか。
「土」が「下駄の歯」について歩きにくい。
しかし、それは不快というよりも心躍るような出来事。
この土から、あらたな芽生えが始まると思えば、むしろ喜ばしい。
私がこの句を読むとき、頭に思い浮かぶのは「この素晴らしき世界(What a Wonderful World)」というルイ・アームストロングが歌う名曲。
それは、「I see trees of green(私は緑の木を見る)」で始まる。
自然の姿や人々の生きている姿に、素晴らしい世界を見出している内容の歌詞。
それをサッチモが独特の声で「何と素晴らしい世界だろう」と高らかに歌い上げている。
この歌によってもたらされる感動は、凡兆のこの句を読むことによってもたらされる感動に似ている。
「何と素晴らしい世界だろう」という凡兆のため息が聞こえるようである。
この句に、緑を表現している語は無い。
なのに、この句からは春の芽生えが感じられる。
たぶん凡兆は、「下駄の歯につく小田の土」を楽しんでいるのだ。
何と素晴らしい春の到来だろうと嬉しがっている。
江戸時代に、梅や桜(花)で春を詠んだ句は多い。
しかし、凡兆の独創性は、「下駄の歯につく小田の土」で春を詠む。
その「土」から芽生える緑が目に見えるようである。
中七、下五の「下駄の歯につく小田の土」を庶民的な「もの(物)」の世界だとすれば、上五の「鶯や」は短歌的抒情が漂う雅の世界。
この両者の対比が面白い。
どういう対比かというと、主役は「小田の土」で、「鶯」は、その背景となっているという対比。
言わば、主従。
「下駄の歯につく小田の土」という「もの(物)」の登場のために、「鶯」がはるか後方でBGMを奏でているという感じ。
「鶯」の伴奏が、「小田の土」の「この素晴らしき世界」を際立たせている。
ルイ・アームストロングが歌う「この素晴らしき世界」が世界への礼賛の歌であるように、「下駄の歯につく小田の土」の句は、凡兆の自然への賛歌である。
それは、人々の暮らしへの賛歌につながっている。
凡兆が、たった17文字で詠った賛歌である。
「鶯や下駄の歯につく小田の土」
■野沢凡兆の俳諧のページへ
そういう作業を続けているうちに、凡兆は身近な生活の「もの(物)」を句にして詠う詩人ではないだろうかという感想を強く持つようになった。
そのことは、過去の記事に何度か書いている。
もの(物)の存在感を描く凡兆の感性が、句を読む者にひしひしと伝わってくる。
それが、凡兆の句を読んで得られる感動である。
凡兆の俳諧は、そういう凡兆特有の「生活の風景詩」的な一面を持っていると思う。
鶯や下駄の歯につく小田の土
野沢凡兆
素朴で平易な句である。
厳しい冬が終わり、本格的な春到来の気配を感じてセンチメンタルな気分になっている人にとっては、目頭が熱くなるような感動をよぶ句であると思う。
この句のどこが涙を誘うのか。
それは「鶯」では無い。
「下駄の歯につく小田の土」という句に、読む者はしんみりとくる。
「小田」の「小(を)」は接頭語で、それに付く「名詞」の矮小さを表していると思われる。
こぢんまりとした「田」というようなイメージ。
「小田」には、あまり肥えていない土を連想させるものがある。
そして、こぢんまりとした「田」は、こぢんまりとした農民の暮らしを連想させる。
こぢんまりとした農民の暮らしは、こぢんまりとした庶民の暮らしにつながっている。
こぢんまりとしながらも生き生きとした様子を連想させているのが、「小田の土」という句である。
「小田」にも春がやってくる。
今まで雪の下に隠れていた「小田の土」が、春の陽気に匂っている。
胸を震わせるような、なつかしい匂い。
凡兆は、この「小田の土」に愛着を感じているのではないだろうか。
「土」が「下駄の歯」について歩きにくい。
しかし、それは不快というよりも心躍るような出来事。
この土から、あらたな芽生えが始まると思えば、むしろ喜ばしい。
私がこの句を読むとき、頭に思い浮かぶのは「この素晴らしき世界(What a Wonderful World)」というルイ・アームストロングが歌う名曲。
それは、「I see trees of green(私は緑の木を見る)」で始まる。
自然の姿や人々の生きている姿に、素晴らしい世界を見出している内容の歌詞。
それをサッチモが独特の声で「何と素晴らしい世界だろう」と高らかに歌い上げている。
この歌によってもたらされる感動は、凡兆のこの句を読むことによってもたらされる感動に似ている。
「何と素晴らしい世界だろう」という凡兆のため息が聞こえるようである。
この句に、緑を表現している語は無い。
なのに、この句からは春の芽生えが感じられる。
たぶん凡兆は、「下駄の歯につく小田の土」を楽しんでいるのだ。
何と素晴らしい春の到来だろうと嬉しがっている。
江戸時代に、梅や桜(花)で春を詠んだ句は多い。
しかし、凡兆の独創性は、「下駄の歯につく小田の土」で春を詠む。
その「土」から芽生える緑が目に見えるようである。
中七、下五の「下駄の歯につく小田の土」を庶民的な「もの(物)」の世界だとすれば、上五の「鶯や」は短歌的抒情が漂う雅の世界。
この両者の対比が面白い。
どういう対比かというと、主役は「小田の土」で、「鶯」は、その背景となっているという対比。
言わば、主従。
「下駄の歯につく小田の土」という「もの(物)」の登場のために、「鶯」がはるか後方でBGMを奏でているという感じ。
「鶯」の伴奏が、「小田の土」の「この素晴らしき世界」を際立たせている。
ルイ・アームストロングが歌う「この素晴らしき世界」が世界への礼賛の歌であるように、「下駄の歯につく小田の土」の句は、凡兆の自然への賛歌である。
それは、人々の暮らしへの賛歌につながっている。
凡兆が、たった17文字で詠った賛歌である。
「鶯や下駄の歯につく小田の土」
■野沢凡兆の俳諧のページへ