「ここに幸あり」異聞
若い頃知合った人のなかに、面白い男がいた。
「はるこうろうの はなのえん」までは「荒城の月」の節なのだが、歌い進むほどにメロディーが変化してくる。
彼が歌う「荒城の月」をはじめて聞いたときは、変な歌い方をする男だなと思ったが、酔っているせいなのだろうとあまり気に留めなかった。
そして、ちょっと練習した後は、「荒城の月」を「ここに幸あり」の節できれいに歌っている自分たちに気がついた。
彼は、酒に酔うと歌をうたいだす癖があった。
そんな人は世間に大勢いるが、彼の場合その歌い方がちょっと変わっていた。
彼の十八番は「荒城の月」。
寮の一室で親交のある者が集まって酒を飲むとき、彼の口からは決まってこの歌が出た。
「はるこうろうの はなのえん」までは「荒城の月」の節なのだが、歌い進むほどにメロディーが変化してくる。
「めぐるさかづき かげさして」にくると、メロディーにやや変化が生じ、「むかしのひかり いまいずこ」では完全に違う歌のメロディーになってしまっていた。
彼が歌う「荒城の月」をはじめて聞いたときは、変な歌い方をする男だなと思ったが、酔っているせいなのだろうとあまり気に留めなかった。
その後何回か彼の「荒城の月」を聞くうちに、歌い方が変になってしまう原因がわかった。
「はるこうろうの はなのえん」は完全に「荒城の月」のメロディー。
「むかしのひかり いまいずこ」は、なんと「ここに幸あり」のメロディーになってしまっていたのだ。
中間の歌詞は、「荒城の月」から「ここに幸あり」への、歌のグラデーションとなっていた。
聞いていて変だなと思う気持ちが、これは不思議だなと思う気持ちに変わったのは居合わせた者皆同じだった。
どうして彼が、「荒城の月」を「ここに幸あり」の節で歌ってしまうのか。
ではなくて。
ではなくて。
「荒城の月」が、どうして「ここに幸あり」のメロディーで歌えてしまうのか。
そのことが、皆の疑問だった。
ある夜に、私たちは酒を飲みながら、この問題について真剣に討議した。
ためしに皆で、「荒城の月」を「ここに幸あり」の節で歌ってみた。
ちょっと練習が必要だった。
そして、ちょっと練習した後は、「荒城の月」を「ここに幸あり」の節できれいに歌っている自分たちに気がついた。
テノールやバスに分かれて合唱っぽく歌ってみたりして、この夜の宴は大いに盛り上がった。
その後私たちは、飲みながらの討議を重ねた。
何度目かの討議の夜に、私たちは大発見をした。
それは、文学部に通っている学生同士の何気ないおしゃべりがヒントになった。
「荒城の月を作詞した土井晩翠って漢詩調の詩を多く書いた人だろう。漢詩って七五調なんだぜ。」
「へっ、それは漢詩の日本語読みが七五調ってだけで、漢詩自体が七五調ってわけじゃないよ。」
『だけど、「荒城の月」って七五調だぜ。』
『七五調でも、「荒城の月」って漢詩じゃないよ・・・・・。』
とたんに一同は、酒の入ったコップを手放し、ぶつぶつ言いながら指をパタパタ折り始めた。
「ほんとだ、七五調だ。」
「きれいに七五調だ。」
「そっくりそのまま七五調だぜ、えらいもんだ。」
なにがどうえらいものやら。
するとどこかで頓狂な声があがった。
『「ここに幸あり」も七五調じゃないか!』
持ち直したコップをまた畳の上に置いて、一同はパタパタ指を折りだした。
『シチゴシチゴ・・・・、ほんとだ、「ここに幸あり」も七五調になってる!』
「いや、シチシチのところもあるぜ!」
「それは字余りってことで、基本的には七五調さ。」
ほうぼうから「シチゴチョウ!」と酔った叫び声があがる。
「そうか、おなじ七五調だから歌えるんだ!」
座の隅でじっと考え込んでいた学生が、大きく目を見開いて皆を見つめながらそう言った。
「おお」と感嘆の声をあげる者。
「うーむ」と合点がいかない者。
パタパタと指を折り続けている者。
学生は目を見開いたまま続けた。
『ということは、七五調の歌詞なら、みんな「ここに幸あり」の節で歌えるってことだぜ!』
「おお」と、また感嘆の声をあげる者。
「うーむ」と、まだ合点がいかない者。
相変わらずパタパタと指を折り続けている者。
「七五調の歌って、他にあるかな」と誰かが言った。
黙々と指を折り続けていた者が、『「怪傑ハリマオ」も七五調じゃないか!』
確かに「怪傑ハリマオ」も変則的ではあるが七五調と言えなくも無い。
やがて、「怪傑ハリマオ」を「ここに幸あり」の節で歌う大合唱が起こった。
だいぶ酔いが進んでいたので、その勢いで、「怪傑ハリマオ」を「ここに幸あり」の節で皆歌い切った。
やっかいなひと仕事を終えた気分だった。
ため息混じりの静寂が訪れたとき、ひとりの学生が得意げにそれを破った。
『「青い山脈」も七五調じゃないか!』
そこで「青い山脈」の大合唱が始まったのは言うまでもない。
「松尾芭蕉だって七五調じゃないか!」と馬鹿なことを言うやつもいた。
ところが「古池や蛙飛び込む水の音」の大合唱。
酒でみんな馬鹿になっていた。
そんな大合唱が、深夜まで続いた。
私たちが催した数多い宴のなかで、最高に盛り上がった一夜だった。
ここまで読んだら、懸命な読者は、もうおわかりのことだろう。
そう、私たちは世間から「三流」の冠を授かっている私立大学の文学部の学生だった。
ろくに勉強もせずに、寮の一室でこんなことばかり繰り返していたので、皆そろって落第し、やがて大学から放り出されることとなった。
同じ寮に住んでいた他の勤勉な学生たちは、さぞやせいせいしたことだろう。
これが、私たち落ちこぼれ学生の青春だった。
もしどこかの町の安酒場で、「荒城の月」を「ここに幸あり」の節で歌うくたびれた老人を見かけたら、きっとそれは寮生活で苦楽をともにした、私の懐かしい友人のひとりに違いない。
最後に、「荒城の月」を「ここに幸あり」の節で歌っていた張本人は、どうしてそんな歌い方をしていたのかについてちょっと書いておこう。
彼は自称ペシミストだった。
私達の青春時代には、自称ニヒリストとか自称マルキストとか、そういうカッコマンが大学内を横行していた。
彼は、そんなカッコマンのひとりだった。
自称ペシミストの彼は、歌を歌うならペシミストらしく「荒城の月」でなければならないと思いこんでいた。
彼としては、小林旭みたいに哀切をおびた節回しで「荒城の月」を歌い上げることがペシミストとしての矜持だと思っていたのだ。
同時に彼は、「ここに幸あり」の歌にも密かに惹かれていた。
大津美子のアルトっぽい低音にしびれていたのだ。
だが「ここに幸あり」を友人たちの前で歌うのは、いかに酒席とは言え、自称ペシミストとしての彼の矜持が許さなかった。
「ここに幸あり」ではカッコがつかない。
でも、「ここに幸あり」を良い歌だと彼は思っていた。
それは、富田 常雄原作の恋愛小説「ここに幸あり」が、昭和31年に小山明子主演で映画化されたことに因っていた。
昭和47年ごろ、学生の彼は、その古い映画を場末の安い映画館で観たことがあった。
彼は、映画を観て感動した。
涙を流した。
彼は、富田 常雄にしびれ、小山明子にしびれ、映画の主題歌「ここに幸あり」にしびれ、その歌を歌った大津美子の歌いっぷりにしびれた。
そして恋愛がもたらす幸福感に対して密かな憧れを持ったのだった。
彼は富田 常雄の小説を読み漁った。
「姿三四郎」や「忍者猿飛佐助」を愛読した。
そんな彼の「しびれ」のすべてが、流行歌「ここに幸あり」にシンボライズされていた。
彼にとって「荒城の月」は、ペシミストとしてのカッコつけの歌だった。
「ここに幸あり」が、彼が心底憧れた「本音」だったのである。
酔うと本音を吐く人がいるが、彼もそうだった。
酔った末に出た、建前から本音への無意識の移行が、建前である「荒城の月」を本音の「ここに幸あり」の節で歌うことだったのである。
あの時代の出来事。
学生寮の一室でのことを考えるたびに、私は彼の厭世的な表情を思い出す。
それが、彼なりに時代を装った顔だったのだろう。
あの学生寮を出て五年ぐらい経ったとき、私はこう結論づけた。
自称ペシミストも自称ニヒリストも自称マルキストも、青春の憧れは「ここに幸あり」だったに違いない、と。
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それは、文学部に通っている学生同士の何気ないおしゃべりがヒントになった。
「荒城の月を作詞した土井晩翠って漢詩調の詩を多く書いた人だろう。漢詩って七五調なんだぜ。」
「へっ、それは漢詩の日本語読みが七五調ってだけで、漢詩自体が七五調ってわけじゃないよ。」
『だけど、「荒城の月」って七五調だぜ。』
『七五調でも、「荒城の月」って漢詩じゃないよ・・・・・。』
とたんに一同は、酒の入ったコップを手放し、ぶつぶつ言いながら指をパタパタ折り始めた。
「ほんとだ、七五調だ。」
「きれいに七五調だ。」
「そっくりそのまま七五調だぜ、えらいもんだ。」
なにがどうえらいものやら。
するとどこかで頓狂な声があがった。
『「ここに幸あり」も七五調じゃないか!』
持ち直したコップをまた畳の上に置いて、一同はパタパタ指を折りだした。
『シチゴシチゴ・・・・、ほんとだ、「ここに幸あり」も七五調になってる!』
「いや、シチシチのところもあるぜ!」
「それは字余りってことで、基本的には七五調さ。」
ほうぼうから「シチゴチョウ!」と酔った叫び声があがる。
「そうか、おなじ七五調だから歌えるんだ!」
座の隅でじっと考え込んでいた学生が、大きく目を見開いて皆を見つめながらそう言った。
「おお」と感嘆の声をあげる者。
「うーむ」と合点がいかない者。
パタパタと指を折り続けている者。
学生は目を見開いたまま続けた。
『ということは、七五調の歌詞なら、みんな「ここに幸あり」の節で歌えるってことだぜ!』
「おお」と、また感嘆の声をあげる者。
「うーむ」と、まだ合点がいかない者。
相変わらずパタパタと指を折り続けている者。
「七五調の歌って、他にあるかな」と誰かが言った。
黙々と指を折り続けていた者が、『「怪傑ハリマオ」も七五調じゃないか!』
確かに「怪傑ハリマオ」も変則的ではあるが七五調と言えなくも無い。
やがて、「怪傑ハリマオ」を「ここに幸あり」の節で歌う大合唱が起こった。
だいぶ酔いが進んでいたので、その勢いで、「怪傑ハリマオ」を「ここに幸あり」の節で皆歌い切った。
やっかいなひと仕事を終えた気分だった。
ため息混じりの静寂が訪れたとき、ひとりの学生が得意げにそれを破った。
『「青い山脈」も七五調じゃないか!』
そこで「青い山脈」の大合唱が始まったのは言うまでもない。
「松尾芭蕉だって七五調じゃないか!」と馬鹿なことを言うやつもいた。
ところが「古池や蛙飛び込む水の音」の大合唱。
酒でみんな馬鹿になっていた。
そんな大合唱が、深夜まで続いた。
私たちが催した数多い宴のなかで、最高に盛り上がった一夜だった。
ここまで読んだら、懸命な読者は、もうおわかりのことだろう。
そう、私たちは世間から「三流」の冠を授かっている私立大学の文学部の学生だった。
ろくに勉強もせずに、寮の一室でこんなことばかり繰り返していたので、皆そろって落第し、やがて大学から放り出されることとなった。
同じ寮に住んでいた他の勤勉な学生たちは、さぞやせいせいしたことだろう。
これが、私たち落ちこぼれ学生の青春だった。
もしどこかの町の安酒場で、「荒城の月」を「ここに幸あり」の節で歌うくたびれた老人を見かけたら、きっとそれは寮生活で苦楽をともにした、私の懐かしい友人のひとりに違いない。
最後に、「荒城の月」を「ここに幸あり」の節で歌っていた張本人は、どうしてそんな歌い方をしていたのかについてちょっと書いておこう。
彼は自称ペシミストだった。
私達の青春時代には、自称ニヒリストとか自称マルキストとか、そういうカッコマンが大学内を横行していた。
彼は、そんなカッコマンのひとりだった。
自称ペシミストの彼は、歌を歌うならペシミストらしく「荒城の月」でなければならないと思いこんでいた。
彼としては、小林旭みたいに哀切をおびた節回しで「荒城の月」を歌い上げることがペシミストとしての矜持だと思っていたのだ。
同時に彼は、「ここに幸あり」の歌にも密かに惹かれていた。
大津美子のアルトっぽい低音にしびれていたのだ。
だが「ここに幸あり」を友人たちの前で歌うのは、いかに酒席とは言え、自称ペシミストとしての彼の矜持が許さなかった。
「ここに幸あり」ではカッコがつかない。
でも、「ここに幸あり」を良い歌だと彼は思っていた。
それは、富田 常雄原作の恋愛小説「ここに幸あり」が、昭和31年に小山明子主演で映画化されたことに因っていた。
昭和47年ごろ、学生の彼は、その古い映画を場末の安い映画館で観たことがあった。
彼は、映画を観て感動した。
涙を流した。
彼は、富田 常雄にしびれ、小山明子にしびれ、映画の主題歌「ここに幸あり」にしびれ、その歌を歌った大津美子の歌いっぷりにしびれた。
そして恋愛がもたらす幸福感に対して密かな憧れを持ったのだった。
彼は富田 常雄の小説を読み漁った。
「姿三四郎」や「忍者猿飛佐助」を愛読した。
そんな彼の「しびれ」のすべてが、流行歌「ここに幸あり」にシンボライズされていた。
彼にとって「荒城の月」は、ペシミストとしてのカッコつけの歌だった。
「ここに幸あり」が、彼が心底憧れた「本音」だったのである。
酔うと本音を吐く人がいるが、彼もそうだった。
酔った末に出た、建前から本音への無意識の移行が、建前である「荒城の月」を本音の「ここに幸あり」の節で歌うことだったのである。
あの時代の出来事。
学生寮の一室でのことを考えるたびに、私は彼の厭世的な表情を思い出す。
それが、彼なりに時代を装った顔だったのだろう。
あの学生寮を出て五年ぐらい経ったとき、私はこう結論づけた。
自称ペシミストも自称ニヒリストも自称マルキストも、青春の憧れは「ここに幸あり」だったに違いない、と。
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