蜻蛉の藻に日を暮す流れかな
昔、まだ田んぼに農薬がたくさん撒かれていなかった頃、田んぼの水路にはたくさんの水生昆虫が暮らしていた。
私が子どもだった頃の津軽地方の村においては、そうだった。
トンボの幼虫であるヤゴも、そんな水生昆虫のひとつ。
子どもの頃は、トンボのことを津軽地方の方言で「だんぶり」と呼んでいた。
夏の終わり頃、だんぶりが水面スレスレに飛びながら「打水産卵」を行っている姿を何度も目撃したことはあったが、その卵がヤゴになるということは、なかなか信じられなかった。
年上の遊び仲間たちが、「ヤゴはだんぶりの子ども。」と盛んに弁じても、私は「まさか?」と思っていた。
その神秘的な違和感が解かれたのは、ヤゴが水草に捕まって脱皮しトンボになる有様を、私がじっと見つめていたときだった。
村の子どもたちは、観察することで自然に対する認識を深めていったのだ。
それは、縄文時代も江戸時代も変わらない認識方法だったに違いない。
多くのトンボは水面で産卵する。
だが、産卵の方法は、トンボの種類によって様々であるらしい。
今から57~59年前頃、私が小学校低学年だった頃の津軽地方の田園地帯は自然が豊かだったから様々な種類のトンボを見ることができた。
きっとトンボの様々な産卵方法を見かけたことだろうが、記憶に残っているのは「打水産卵」の印象深い姿。
水面にシッポを打ち付ける動きが、とてもスリリングに見えたものだった。
蜻蛉(とんぼう)の藻に日を暮す流れかな
野沢凡兆
凡兆が句に詠んだトンボは、水生植物の体内に「産卵管」を差し込んで卵を産むタイプなのだろう。
流れが強いので、水面の「藻」が激しく揺れ動く。
「蜻蛉」は、揺れる「藻」に産卵するタイミングを狙っているが、なかなか「藻」に近づけない。
凡兆は、その様子をじっと眺めていたことだろう。
夕刻の小川。
「蜻蛉」の懸命な努力をよそに、もう日が暮れかかっている。
凡兆は、強い小川の「流れ」と目の前の「蜻蛉」との駆け引きを興味深く眺め続けていたに違いない。
「打水産卵」よりもスリリングな「蜻蛉」の行動。
「藻に日を暮らす」というリズミカルな句の言葉。
ずっと流れ続ける川面。
秋の日に、人目に触れることもなく、いたるところで展開されている光景なのだろうが、凡兆はそれをかがみ込んで凝視している。
「藻に日を暮ら」している「蜻蛉」とそれを眺めている凡兆。
目まぐるしく流れている小川。
流れをじっと見ていると、自身が上流に向かって運ばれているような錯覚に襲われる。
眩暈のなかで、ひょっとしたら「藻に日を暮ら」している「蜻蛉」は自身ではないかという幻想も湧いてきたのではあるまいか。
いやいや芭蕉と違って、凡兆からはそんな「劇」的な演出は感じられない。
もっと条件の良い場所で卵を産めばいいじゃないかという凡兆の批判的な感情も感じられない。
「流れ」のなかでただ淡々と「藻に日を暮ら」している「蜻蛉」の姿がクローズアップされているだけだと私は感じている。
叙景に徹している。
そうすることで、純粋な「蜻蛉」の存在感が伝わってきているような気がする。
蜻蛉の藻に日を暮す流れかな
※参考までに
野沢凡兆の「藻」と「流れ」を題材としたものに「渡り懸て藻の花のぞく流哉」という句もあります。
■野沢凡兆の俳諧のページへ
子どもの頃は、トンボのことを津軽地方の方言で「だんぶり」と呼んでいた。
夏の終わり頃、だんぶりが水面スレスレに飛びながら「打水産卵」を行っている姿を何度も目撃したことはあったが、その卵がヤゴになるということは、なかなか信じられなかった。
年上の遊び仲間たちが、「ヤゴはだんぶりの子ども。」と盛んに弁じても、私は「まさか?」と思っていた。
その神秘的な違和感が解かれたのは、ヤゴが水草に捕まって脱皮しトンボになる有様を、私がじっと見つめていたときだった。
村の子どもたちは、観察することで自然に対する認識を深めていったのだ。
それは、縄文時代も江戸時代も変わらない認識方法だったに違いない。
多くのトンボは水面で産卵する。
だが、産卵の方法は、トンボの種類によって様々であるらしい。
今から57~59年前頃、私が小学校低学年だった頃の津軽地方の田園地帯は自然が豊かだったから様々な種類のトンボを見ることができた。
きっとトンボの様々な産卵方法を見かけたことだろうが、記憶に残っているのは「打水産卵」の印象深い姿。
水面にシッポを打ち付ける動きが、とてもスリリングに見えたものだった。
蜻蛉(とんぼう)の藻に日を暮す流れかな
野沢凡兆
凡兆が句に詠んだトンボは、水生植物の体内に「産卵管」を差し込んで卵を産むタイプなのだろう。
流れが強いので、水面の「藻」が激しく揺れ動く。
「蜻蛉」は、揺れる「藻」に産卵するタイミングを狙っているが、なかなか「藻」に近づけない。
凡兆は、その様子をじっと眺めていたことだろう。
夕刻の小川。
「蜻蛉」の懸命な努力をよそに、もう日が暮れかかっている。
凡兆は、強い小川の「流れ」と目の前の「蜻蛉」との駆け引きを興味深く眺め続けていたに違いない。
「打水産卵」よりもスリリングな「蜻蛉」の行動。
「藻に日を暮らす」というリズミカルな句の言葉。
ずっと流れ続ける川面。
秋の日に、人目に触れることもなく、いたるところで展開されている光景なのだろうが、凡兆はそれをかがみ込んで凝視している。
「藻に日を暮ら」している「蜻蛉」とそれを眺めている凡兆。
目まぐるしく流れている小川。
流れをじっと見ていると、自身が上流に向かって運ばれているような錯覚に襲われる。
眩暈のなかで、ひょっとしたら「藻に日を暮ら」している「蜻蛉」は自身ではないかという幻想も湧いてきたのではあるまいか。
いやいや芭蕉と違って、凡兆からはそんな「劇」的な演出は感じられない。
もっと条件の良い場所で卵を産めばいいじゃないかという凡兆の批判的な感情も感じられない。
「流れ」のなかでただ淡々と「藻に日を暮ら」している「蜻蛉」の姿がクローズアップされているだけだと私は感じている。
叙景に徹している。
そうすることで、純粋な「蜻蛉」の存在感が伝わってきているような気がする。
蜻蛉の藻に日を暮す流れかな
※参考までに
野沢凡兆の「藻」と「流れ」を題材としたものに「渡り懸て藻の花のぞく流哉」という句もあります。
■野沢凡兆の俳諧のページへ