物好きや匂はぬ草にとまる蝶
「物好き」はよく耳にする言葉である。
「物好き」には、「変わったことを好むこと」という意味がある。
好みや趣味という意味で「物好き」を使うこともあるとか。
「デジタル大辞典」にそう書いてあった。
現代では、一般と違ったことを好む「変わり者」として「物好き」な人というような使われ方をしていることが多い。
江戸時代では、どうだったのだろう。
その道の探求者というような、褒め言葉として使われていたのだろうか。
むしろ「物好き」は、その人の性癖を示していたのではないだろうか。
もしそうであれば、「多くの人とは違うことをする人」というような。
一般では、自身の得になるような行いを選ぶものだが。
自分にとって有利になるような立場に立とうとするものだが。
世間から見れば「物好き」は、そんなことにはお構いなし。
まったく何を考えているんだか、とんとわかりゃしない。
というような、その人を揶揄するような言い方だったのかもしれない。
これらは私の推測なのだが、下記の芭蕉の発句を読んで、そういう感想をもったのだ。
物好きや匂はぬ草にとまる蝶
松尾芭蕉
元禄三年刊の「池西言水(いけにしごんすい)」編「都曲(みやこぶり)」に収録されている芭蕉の発句。
このとき芭蕉は四十七歳になっている。
ちょっと都々逸を連想させるような、格言のような。
平明な言葉で詠われているが、芭蕉の句のなかでは、話題にあがることがあまりない句である。
「匂はぬ草」とは、甘い蜜の香りがしない、蜜を含んでいない草花のことなのだろう。
ハチやミツバチは、こんな無益な動きはしないだろうという、芭蕉の見解が含まれているような句である。
なぜなら、ハチやミツバチは「実」の世界に生きている者達であるから。
「匂はぬ草」には、ハチやミツバチ達を利する実益が無い。
「匂はぬ草にとまる」のは「虚」の世界に生きている「蝶」だけである。
いや「蝶」だって、その多くは蜜を求めている。
世間から「風変わり」と揶揄されている少数の「物好き」な「蝶」だけが「匂はぬ草」にとまってあそんでいるのだろう。
長谷川櫂(かい)氏は、その著書「芭蕉の風雅ーあるいは虚と実についてー」で、芭蕉の門弟の各務支考(かがみしこう)が書き留めたという芭蕉の言葉を紹介している。
以下はその抜粋である。
実益を求めるハチやミツバチが、「匂はぬ草」にとまってあそぶ事は難しいことだ。
風狂の世界に生きる「蝶」だからこそできることなのだ。
掲句は、一見、芭蕉の自嘲の句であるような雰囲気をもっている。
しかし、私はそうは思わない。
私は、むしろ自己愛の句であるような印象をもった。
「物好き」である自身に誇りを持って生きてきたのが「俳諧師芭蕉」という生き方ではなかったろうか。
「物好き」の「ものの見方」は、それ自体がひとつの能力であるように思う。
「得や有利」を求める世間一般の人には見えない「実」を、芭蕉は「匂はぬ草」にとまって見ようとしたのではあるまいか。
そこに「実」があったのかなかったのか。
それは、私ごときにはわからない。
ただ、それが芭蕉の「風狂観」であり、「虚に居て実をおこなうべし」ということなのではという推測は、私でもできる。
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「物好き」には、「変わったことを好むこと」という意味がある。
好みや趣味という意味で「物好き」を使うこともあるとか。
「デジタル大辞典」にそう書いてあった。
現代では、一般と違ったことを好む「変わり者」として「物好き」な人というような使われ方をしていることが多い。
江戸時代では、どうだったのだろう。
その道の探求者というような、褒め言葉として使われていたのだろうか。
むしろ「物好き」は、その人の性癖を示していたのではないだろうか。
もしそうであれば、「多くの人とは違うことをする人」というような。
一般では、自身の得になるような行いを選ぶものだが。
自分にとって有利になるような立場に立とうとするものだが。
世間から見れば「物好き」は、そんなことにはお構いなし。
まったく何を考えているんだか、とんとわかりゃしない。
というような、その人を揶揄するような言い方だったのかもしれない。
これらは私の推測なのだが、下記の芭蕉の発句を読んで、そういう感想をもったのだ。
物好きや匂はぬ草にとまる蝶
松尾芭蕉
元禄三年刊の「池西言水(いけにしごんすい)」編「都曲(みやこぶり)」に収録されている芭蕉の発句。
このとき芭蕉は四十七歳になっている。
ちょっと都々逸を連想させるような、格言のような。
平明な言葉で詠われているが、芭蕉の句のなかでは、話題にあがることがあまりない句である。
「匂はぬ草」とは、甘い蜜の香りがしない、蜜を含んでいない草花のことなのだろう。
ハチやミツバチは、こんな無益な動きはしないだろうという、芭蕉の見解が含まれているような句である。
なぜなら、ハチやミツバチは「実」の世界に生きている者達であるから。
「匂はぬ草」には、ハチやミツバチ達を利する実益が無い。
「匂はぬ草にとまる」のは「虚」の世界に生きている「蝶」だけである。
いや「蝶」だって、その多くは蜜を求めている。
世間から「風変わり」と揶揄されている少数の「物好き」な「蝶」だけが「匂はぬ草」にとまってあそんでいるのだろう。
長谷川櫂(かい)氏は、その著書「芭蕉の風雅ーあるいは虚と実についてー」で、芭蕉の門弟の各務支考(かがみしこう)が書き留めたという芭蕉の言葉を紹介している。
以下はその抜粋である。
「風狂は其言語をいへり。言語は虚に居て実をおこなうべし。実に居て虚にあそぶ事は難し」(支考「陳情の表」)この芭蕉の「言葉 」を参考にして、掲句を読むと、私の感想は以下のようになる。
実益を求めるハチやミツバチが、「匂はぬ草」にとまってあそぶ事は難しいことだ。
風狂の世界に生きる「蝶」だからこそできることなのだ。
掲句は、一見、芭蕉の自嘲の句であるような雰囲気をもっている。
しかし、私はそうは思わない。
私は、むしろ自己愛の句であるような印象をもった。
「物好き」である自身に誇りを持って生きてきたのが「俳諧師芭蕉」という生き方ではなかったろうか。
「物好き」の「ものの見方」は、それ自体がひとつの能力であるように思う。
「得や有利」を求める世間一般の人には見えない「実」を、芭蕉は「匂はぬ草」にとまって見ようとしたのではあるまいか。
そこに「実」があったのかなかったのか。
それは、私ごときにはわからない。
ただ、それが芭蕉の「風狂観」であり、「虚に居て実をおこなうべし」ということなのではという推測は、私でもできる。
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