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社会人という仮構と思い違い

2020/01/21
事務所に居るときは、ほとんどラジオを聴きながら仕事をしている。
独りで仕事をしているのでラジオから流れてくる音楽が心地良いのだ。
孤独を愛しているのだが、私は孤独から愛されてはいない。
それで寂しくなって、ラジオを聴いている。
自称「孤独愛好者」とは、そんなもの。

曲と曲の合間に、番組司会者のトークが入る。
仕事に集中しているので、音楽や司会者の話は何気なく聴いている。
そんな感じで聞いていたとき、私の耳に飛び込んできた「オシャベリ」があった。

『そんな常識も知らないなんて「破壊人」として失格ですね。』

司会者の若い男は、自分が「常識人」の代表であるかのような口調でそう言ったのだった。
私の空っぽの頭の中に「エッ!」と言う頓狂な音が響いた。
『「破壊人」として失格ってどういうことだ?』
『「破壊人」って何?』

キカイダーマンは人造人間だった。
ガンダムは、機動戦士だった。
マジンガーゼットは、スーパーロボット。
じゃ、ハカイジンは何?

むかし、土方だったころ「ハツリ」の仕事をしたことがあった。
「ハツリ」とは、解体した建物のコンクリートの基礎なんかを削岩機で破壊する仕事。
あの仕事に従事している人が「破壊人」なのだろうか。
「破壊人」として失格ってことは、削岩機の扱いに慣れていないってことか。
などと、なかば空虚に、思いが巡った。

音楽が終わると、司会者の若い男の「オシャベリ」が、また始まる。

『結婚して家庭を持てば、「破壊人」としての自覚も出てくるのでしょうね。』

あれ!?、あらら、これは私の聞き違いか。
ラジオ番組の司会者が「社会人」と言っているのを、私は「破壊人」と聞き違えていたのだ。
今回の聞き違いは、以前記事にした錯覚とは少し違う。
耳が「社会人」という音を聞いているのに、思いが「破壊人」をイメージしている。
とても反社会的な「破壊人」。

とんだ私の思い違い。
けれども、聞き違いや思い違いをするたびに、いつも思うのは、思い違わせる「強制力」のこと。
何か思い違いをするたびに、私はこの謎の「強制力」を感じる。
それは、周囲から感じる圧力のようなもの。
そして、そんな周囲に、私は異郷的な何かを感じている。

「社会人」という言葉にも、「強制力」がある。
世間的なシキタリも含めて、社会の慣習に順応している者が「社会人」であるとしたら、「社会人」という言葉には、そういう「強制力」がある。
『そんな常識も知らないなんて「社会人」として失格ですね。』とか『結婚して家庭を持てば、「社会人」としての自覚も出てくるのでしょうね。』とかの台詞が「説得力」を持っているのは、その「強制力」のおかげに違いない。

その謎の「強制力」が、一方では人々を「社会人」たらしめ、一方では錯覚や思い違いを生じさせる。
「社会人」を「破壊人」と、私に聞き間違えさせた「強制力」は、「破壊人」を強く印象づけることで、私に対して、もっと社会へ適応せよと促している。
適応を促しつつ、「破壊人」としての道化を演じさせる。

ときに人は、自身と社会との関係について考えることを強いられる。
マスコミが行う街頭質問のように、人は「答」や「感想」を求められる。
そのとき私たちは、その「答」や「感想」を仮構するか、思い違いをするか。
そのどちらかなのではないだろうか。

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