花にうき世我酒白く飯黒し
「銀シャリ」という言葉を初めて聞いたのは、子どもの頃。
テレビドラマを見ていたときだったような。
刑務所での食事の時間に、受刑者がつぶやく。
「もうクサイ飯は食い飽きた。早くシャバへ出て銀シャリが食いてえぜ。」
そうそう、「シャバ」という言葉もそのドラマで覚えたのだった。
テレビドラマは、津軽半島の寒村で暮らす子ども達にとって、未知の世界のボキャブラリーの宝庫だったのだ。
「銀シャリ」とは、白米を炊いた御飯のことである。
「あーあ、白いおまんまが食いてぇーなあ」と同房の若い受刑者が独り言つ。
「銀シャリ」は、その「白いおまんま」と同義語。
白米は、玄米を精米したお米。
玄米の「玄」には、「暗い」とか「色が濃い」という意味がある。
芭蕉が詠った「飯黒し」の黒い飯とは、玄米で炊いた御飯のことと思われる。
玄米に雑穀や麦などを混ぜ、量を増やして炊いた御飯は、さらに色が黒っぽくなる。
江戸時代の貧しい農民の御飯は、「飯黒し」の日が多かったようである。
花にうき世我(わが)酒白く飯黒し
松尾芭蕉
天和三年春、芭蕉四十歳のときの作である。
その前の年の暮、天和二年十二月末に、江戸が大火(天和の大火)に見舞われる。
焼け出された芭蕉は、その避難先で新年を迎え、冬を過ごした。
そして掲句は、桜の咲く時期になったときの作と思われる。
この前記事にした「馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉」は、この年の夏の作。
夏野の明るい牧歌的な気分と違って、掲句の芭蕉は悟りを開いたように泰然としている。
季節は春。
世間は花見に浮かれているのに、今の私が飲んでいる酒は安価な濁酒。
私が食べているご飯は、いままでの「銀シャリ」と違って黒っぽい米の飯だ。
それでも「花にうき世」なのだ。
江戸の大火の復興が、まだ成っていない時期だったのだろう。
食事が粗末だったことがうかがわれる。
芭蕉の生活を支援していた裕福な商人たちも罹災して、この時期、芭蕉への援助が滞りがちだったのことも考えられる。
そういう境遇を、芭蕉は色彩を盛り込んで句に表現した。
「花」と「白」と「黒」。
そう表現することで、気分をリフレッシュしようとしたのかもしれない。
「花にうき世」は浮世の花見が連想され、色どり賑やかな花見料理が思い浮かぶ。
満開の桜の下で華やかな料理を食べて歓談する。
去年の春までは、そんな風に過ごしたと芭蕉が回顧する。
それが江戸の大火ですっかり消えてしまった。
時期的には花見の頃であるが、「浮世」は、まるで「憂き世」のようである。
掲句の「我酒」と言い放っているところが芝居がかっている。
舞台上手の、被災地の仮宿で芭蕉が濁酒を飲んでいる。
膝の前の粗末なお膳には、黒っぽい御飯を盛った茶碗がひとつ。
お香の皿と味噌汁のお椀。
一汁一菜。
舞台下手には、焼け野原のなかに焼け残った桜の木が一本。
華やかに満開だ。
全体に暗い風景のなかで、桜の木だけがスポットライトに浮かんでいるように明るい。
芭蕉は桜の木を眺めながら独白する。
「花にうき世 我酒白く 飯黒し」
「花にうき世」は穏やかだった以前の暮らし。
「我酒白く飯黒し」は、今の有様。
過去と現在を対比しているように思われる。
「我酒白く」と「飯黒し」で、白と黒との対比。
「花」と「白黒」で、カラーとモノクロームの対比。
掲句は幾重にも対比を盛り込んだ句のように見受けられる。
そしてその対比が、芭蕉の「我」という語に溶解してしまうようなイメージを持っている。
「コレクション日本歌人選034・芭蕉(伊藤善隆著:笠間書店)」によると、この句には「憂ヘテハ方(まさ)ニ酒ノ聖ヲ知リ、貧シテハ始テ銭ノ神ヲ覚(さと)ル(憂方知酒聖、貧始覚銭神)」という漢詩調の前書きが付されているという。
この前書きは、中国唐代の詩人「白居易」の、「草合ヒ門ニ径(みち)ナク、煙消エ甑塵(そうじん)アリ。憂ヘテ方ニ酒ノ聖ヲ知リ、貧シテ始テ銭神ヲ覚(さと)ル」という詩句に基づいている書かれてある。
悩みを抱えたときには酒の尊さが分かり、貧乏におちいったときに始めて金銭の力を自覚するという格言的な内容である。
白居易の格言的な漢詩を句の前書きとして引用した芭蕉の意図は何なのだろう。
浮世に桜があれば、悩み事を癒やすのには安い濁酒でいい。
懐には、雑穀を混ぜた玄米御飯が食えるほどの金銭があればいいさ。
ねえそうじゃないかい、白居易さん。
そう芭蕉が言っているように、私には聞こえる。
今は貧しい暮らしぶりだが、花が咲いて、とりあえず酒と飯があれば、それでいいじゃないか。
命からがら大火から逃げ出した芭蕉の達観である。
花にうき世我酒白く飯黒し
この年の翌年、貞享元年八月、芭蕉は初度の「俳諧行脚」に出る。
「野ざらしを心に風のしむ身哉」と詠って「野晒紀行」の旅に出立した。
さらにその三年後、貞享四年の晩秋「笈の小文」の旅へ続く。
芭蕉は「笈の小文」の旅に出る前に、「ものひとつ我が世はかろきひさごかな」という
テレビドラマを見ていたときだったような。
刑務所での食事の時間に、受刑者がつぶやく。
「もうクサイ飯は食い飽きた。早くシャバへ出て銀シャリが食いてえぜ。」
そうそう、「シャバ」という言葉もそのドラマで覚えたのだった。
テレビドラマは、津軽半島の寒村で暮らす子ども達にとって、未知の世界のボキャブラリーの宝庫だったのだ。
「銀シャリ」とは、白米を炊いた御飯のことである。
「あーあ、白いおまんまが食いてぇーなあ」と同房の若い受刑者が独り言つ。
「銀シャリ」は、その「白いおまんま」と同義語。
白米は、玄米を精米したお米。
玄米の「玄」には、「暗い」とか「色が濃い」という意味がある。
芭蕉が詠った「飯黒し」の黒い飯とは、玄米で炊いた御飯のことと思われる。
玄米に雑穀や麦などを混ぜ、量を増やして炊いた御飯は、さらに色が黒っぽくなる。
江戸時代の貧しい農民の御飯は、「飯黒し」の日が多かったようである。
花にうき世我(わが)酒白く飯黒し
松尾芭蕉
天和三年春、芭蕉四十歳のときの作である。
その前の年の暮、天和二年十二月末に、江戸が大火(天和の大火)に見舞われる。
焼け出された芭蕉は、その避難先で新年を迎え、冬を過ごした。
そして掲句は、桜の咲く時期になったときの作と思われる。
この前記事にした「馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉」は、この年の夏の作。
夏野の明るい牧歌的な気分と違って、掲句の芭蕉は悟りを開いたように泰然としている。
季節は春。
世間は花見に浮かれているのに、今の私が飲んでいる酒は安価な濁酒。
私が食べているご飯は、いままでの「銀シャリ」と違って黒っぽい米の飯だ。
それでも「花にうき世」なのだ。
江戸の大火の復興が、まだ成っていない時期だったのだろう。
食事が粗末だったことがうかがわれる。
芭蕉の生活を支援していた裕福な商人たちも罹災して、この時期、芭蕉への援助が滞りがちだったのことも考えられる。
そういう境遇を、芭蕉は色彩を盛り込んで句に表現した。
「花」と「白」と「黒」。
そう表現することで、気分をリフレッシュしようとしたのかもしれない。
「花にうき世」は浮世の花見が連想され、色どり賑やかな花見料理が思い浮かぶ。
満開の桜の下で華やかな料理を食べて歓談する。
去年の春までは、そんな風に過ごしたと芭蕉が回顧する。
それが江戸の大火ですっかり消えてしまった。
時期的には花見の頃であるが、「浮世」は、まるで「憂き世」のようである。
掲句の「我酒」と言い放っているところが芝居がかっている。
舞台上手の、被災地の仮宿で芭蕉が濁酒を飲んでいる。
膝の前の粗末なお膳には、黒っぽい御飯を盛った茶碗がひとつ。
お香の皿と味噌汁のお椀。
一汁一菜。
舞台下手には、焼け野原のなかに焼け残った桜の木が一本。
華やかに満開だ。
全体に暗い風景のなかで、桜の木だけがスポットライトに浮かんでいるように明るい。
芭蕉は桜の木を眺めながら独白する。
「花にうき世 我酒白く 飯黒し」
「花にうき世」は穏やかだった以前の暮らし。
「我酒白く飯黒し」は、今の有様。
過去と現在を対比しているように思われる。
「我酒白く」と「飯黒し」で、白と黒との対比。
「花」と「白黒」で、カラーとモノクロームの対比。
掲句は幾重にも対比を盛り込んだ句のように見受けられる。
そしてその対比が、芭蕉の「我」という語に溶解してしまうようなイメージを持っている。
「コレクション日本歌人選034・芭蕉(伊藤善隆著:笠間書店)」によると、この句には「憂ヘテハ方(まさ)ニ酒ノ聖ヲ知リ、貧シテハ始テ銭ノ神ヲ覚(さと)ル(憂方知酒聖、貧始覚銭神)」という漢詩調の前書きが付されているという。
この前書きは、中国唐代の詩人「白居易」の、「草合ヒ門ニ径(みち)ナク、煙消エ甑塵(そうじん)アリ。憂ヘテ方ニ酒ノ聖ヲ知リ、貧シテ始テ銭神ヲ覚(さと)ル」という詩句に基づいている書かれてある。
悩みを抱えたときには酒の尊さが分かり、貧乏におちいったときに始めて金銭の力を自覚するという格言的な内容である。
白居易の格言的な漢詩を句の前書きとして引用した芭蕉の意図は何なのだろう。
浮世に桜があれば、悩み事を癒やすのには安い濁酒でいい。
懐には、雑穀を混ぜた玄米御飯が食えるほどの金銭があればいいさ。
ねえそうじゃないかい、白居易さん。
そう芭蕉が言っているように、私には聞こえる。
今は貧しい暮らしぶりだが、花が咲いて、とりあえず酒と飯があれば、それでいいじゃないか。
命からがら大火から逃げ出した芭蕉の達観である。
花にうき世我酒白く飯黒し
この年の翌年、貞享元年八月、芭蕉は初度の「俳諧行脚」に出る。
「野ざらしを心に風のしむ身哉」と詠って「野晒紀行」の旅に出立した。
さらにその三年後、貞享四年の晩秋「笈の小文」の旅へ続く。
芭蕉は「笈の小文」の旅に出る前に、「ものひとつ我が世はかろきひさごかな」という
達観した宣言を残している。