大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも
岩を砕く波
海水面は、風や月の引力の影響で波を作る。
風の強い日は、その波が沖合いから陸地めがけて押し寄せ、大きな音をたてて磯に衝突する。
岩にぶつかって割れる波。
大きな岩に砕かれる波。
岩の細い隙間に入り込んで裂ける波。
そして最後には、波の先端が飛沫となって空に散る。
海辺での波の変化を思い浮かべていると、あることに気づいた。
磯に押し寄せる波は、岩によって砕かれているように見える。
だが、割れたり砕けたり裂けたり散ったりしてできた波の破片は、すぐにまた一体化して、もとの姿に戻っている。
破壊されているのは波ではなくて、磯にある岩の方なのだ。
波の浸食によって磯が、割れ、砕け、裂けて、その破片が海の底へ散っている。
源実朝が伊豆の海で詠んだ歌
磯の形は、大海から押し寄せる波によって作られている。
磯とは、海の波の猛威を映しだす鏡であるのかもしれない。
大海(おほうみ)の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも
源実朝
前書きに「あら磯に浪のよるを見てよめる」とある。
源実朝が「二所詣(にしょもうで)」に出た際に、伊豆の海を見て作った歌とされている。
掲出歌は、源実朝の歌集(家集)である「金槐和歌集」に収められている。
この歌は、後世の批評家によって、表現傾向が「万葉調」であると評されている歌のひとつ。
「万葉調」とは、感動を率直に表し、素朴かつ壮大で力強い調子を持つ表現傾向のことらしい。
荒磯に打ち寄せる荒波を題材にして詠った歌であるから、素朴で壮大という傾向は感じられなくもない。
しかし、掲出歌の壮大な印象は「大海の磯もとどろによする波」までだと私は感じている。
その後に続く「われてくだけて裂けて散るかも」には、作者のなかに潜んでいる悲壮感が徐々に姿を現し、視界がどんどん萎んでいく印象を否めない。
「二所詣」とは
「二所詣」とは、源氏が将軍職に就いていた頃の「鎌倉殿(鎌倉幕府)」の正月恒例行事。
実朝の父である源頼朝が始めたもので、正月に伊豆山権現 (伊豆山神社) と箱根権現(箱根神社)の二所に参詣する行事のこと。
頼朝亡き後、源氏代々の将軍が「二所詣」を行うのが、祭祀権者としての義務であったという。
「日本詩人選12 源実朝(著:吉本隆明 筑摩書房)」によれば、実朝の最後の「二所詣」は、建保六年(1218年)とされている。
ちなみに、「鎌倉幕府」の源氏代々将軍は、以下の通りである(Wikipediaにある鎌倉将軍一覧、その他を参照)。
頼朝亡き後、源氏代々の将軍が「二所詣」を行うのが、祭祀権者としての義務であったという。
「日本詩人選12 源実朝(著:吉本隆明 筑摩書房)」によれば、実朝の最後の「二所詣」は、建保六年(1218年)とされている。
「鎌倉幕府」の源氏将軍
ちなみに、「鎌倉幕府」の源氏代々将軍は、以下の通りである(Wikipediaにある鎌倉将軍一覧、その他を参照)。
- 初代:源頼朝(1192年~1199年)/死因:病死説・事故死説・暗殺説/享年:53歳
- 二代:源頼家(1202年~1203年)/死因:暗殺/享年:23歳
- 三代:源実朝(1203年~1219年)/死因:暗殺/享年:28歳
実朝のこの歌がいつ頃の作かは、私には不明である。
源頼朝の嫡出の次男である源実朝が、兄頼家の後任となって「鎌倉幕府」の将軍職に就いたのは十二歳(建仁三年:1203年)のとき。
建仁四年(元久元年:1204年)の正月から、最後の「二所詣」の建保六年:二十七歳(1218年)の正月までに、実朝は十四回正月に伊豆の海を見ていたことになる。
掲出歌は、そのいずれかの年の作であると推察できる。
この歌は、磯に砕け散る波の様子を歌った叙景歌である。
詩人の大岡信はその著書「日本の詩歌/その骨組みと素肌」で「日本の叙景歌は偽装された恋歌である」と述べた。
ちょっと見当違いかもしれないが、大岡氏の言葉を借りるなら、実朝のこの叙景歌は「偽装された何歌」と言うべきか。
沖の海から、磯にいる実朝に押し寄せる波。
その波を、抗い難い猛威と恐れていたのか。
源頼朝と北条政子の次男として生まれ、頼朝亡き後、母方の北条氏に幕府の実権を握られていた形だけの将軍の運命。
兄頼家の暗殺に、実母である北条政子が、間接的にせよ関係しているとの風評が漂う中、実朝の己が人生に対する絶望感は大きなものだったに違いない。
そう考えると、実朝のこの歌は「偽装された絶望歌」のように思えてくる。
偽装されたというよりも、暗喩としての「絶望歌」と言うべきか。
その一方で実朝は、わが身(磯の岩)に近づく猛威の波を、割れて砕けて裂けて散ればよいものをと願っていたのかもしれない。
その願いが込められているとすれば、この叙景歌は「偽装された抵抗歌」の一面も持っている。
しかし猛威は、波のように砕けても、すぐに一体化してもとの姿にもどってしまう。
実朝は、その運命ゆえに、母親の弟である北条義時の陰謀によってか、甥の公暁の独断によってか、暗殺される。
兄頼家とは違った人生観を持ってはいても、実朝は同じ血縁故に同じ人生の終焉を武力によって強制された。
「鎌倉幕府」という武力世界から逃れられなかった実朝の運命であるのかもしれない。
掲出歌の「われてくだけて裂けて散る」という破壊(破滅)のイメージが執拗に繰り返される下りは衝撃的である。
中世の「関東の武家」の、身内同士の「生残り権力闘争」の波に襲われて、自身が散っていくことを、実朝は眼の前の風景に重ね合わせたことだろう。
歌の前書きにある「あら磯に浪のよるを見てよめる」には、謀略の波(暗殺の予兆)が自身のところに押し寄せて来つつあるのを、目前にしていた実朝の姿を思い浮かばせるものがある。
歌人としての観察眼は、現実の猛威にも目を凝らし、アンテナを立てていたに違いない。
そう考えると掲出歌は、実朝の晩年近くの「二所詣」の際に作られた歌のように思えてくる。
骨肉の争いが絶えなかった一族の一員として生まれた実朝は、数々の謀略の波を映し出す鏡になろうとしたのか。
秀歌の評判高いこの歌を、あらためて鑑賞してみても、トウシロな私の「鑑賞基準」である「カッコ良さ」は感じられない。
ただただ破滅的なイメージが波のように押し寄せるだけである。
掲出歌を、スケールの大きな歌であると評する人もいるが、私はそうは思わない。
どんどん砕かれて散っていくような終焉のイメージに、広がりは感じられないからである。
ここで芭蕉を登場させるのは唐突だが、松尾芭蕉の下記の句に、私はスケールの大きさを感じている。
島々や千々に砕きて夏の海
この句に触れると、中世武家社会の「生き残りのための身内殺戮劇」からようやく救われた心持がする。
そういえば芭蕉は木曾(源)義仲が好きだったようである。
大津に立ち寄ったときは、木曾義仲の墓所がある義仲寺(ぎちゅうじ)境内の無名庵にたびたび宿泊したという。
木曾義仲もまた従兄弟にあたる源義経によって滅ぼされたのであった。
芭蕉は生前に「骸(から)は木曽塚(義仲寺)に送るべし」と遺言していたという。
源頼朝の嫡出の次男である源実朝が、兄頼家の後任となって「鎌倉幕府」の将軍職に就いたのは十二歳(建仁三年:1203年)のとき。
建仁四年(元久元年:1204年)の正月から、最後の「二所詣」の建保六年:二十七歳(1218年)の正月までに、実朝は十四回正月に伊豆の海を見ていたことになる。
掲出歌は、そのいずれかの年の作であると推察できる。
偽装された歌?
この歌は、磯に砕け散る波の様子を歌った叙景歌である。
詩人の大岡信はその著書「日本の詩歌/その骨組みと素肌」で「日本の叙景歌は偽装された恋歌である」と述べた。
ちょっと見当違いかもしれないが、大岡氏の言葉を借りるなら、実朝のこの叙景歌は「偽装された何歌」と言うべきか。
沖の海から、磯にいる実朝に押し寄せる波。
その波を、抗い難い猛威と恐れていたのか。
源頼朝と北条政子の次男として生まれ、頼朝亡き後、母方の北条氏に幕府の実権を握られていた形だけの将軍の運命。
兄頼家の暗殺に、実母である北条政子が、間接的にせよ関係しているとの風評が漂う中、実朝の己が人生に対する絶望感は大きなものだったに違いない。
そう考えると、実朝のこの歌は「偽装された絶望歌」のように思えてくる。
偽装されたというよりも、暗喩としての「絶望歌」と言うべきか。
その一方で実朝は、わが身(磯の岩)に近づく猛威の波を、割れて砕けて裂けて散ればよいものをと願っていたのかもしれない。
その願いが込められているとすれば、この叙景歌は「偽装された抵抗歌」の一面も持っている。
しかし猛威は、波のように砕けても、すぐに一体化してもとの姿にもどってしまう。
実朝の運命
父頼朝のような政治力もなく、兄頼家のような腕力もなかった実朝は、両者とはまったく違った人生観を持っていたに違いない。
- 関東の武家に生まれながらも貴族の子どものように蹴鞠や和歌を好んだ。
- 勅撰和歌集入集の名の知られた歌人。「家集」は「金槐和歌集(きんかいわかしゅう)」。
- 鎌倉幕府三代将軍。
- 自身が求めて、朝廷から「右大臣」に任命される。
- 「右大臣」に任命された翌年の正月、昇任を祝う鶴岡八幡宮拝賀の最中、甥(兄頼家の息子)によって暗殺される。
- (Wikipediaにある源実朝、その他を参照)
実朝は、その運命ゆえに、母親の弟である北条義時の陰謀によってか、甥の公暁の独断によってか、暗殺される。
兄頼家とは違った人生観を持ってはいても、実朝は同じ血縁故に同じ人生の終焉を武力によって強制された。
「鎌倉幕府」という武力世界から逃れられなかった実朝の運命であるのかもしれない。
破壊(破滅)を映し出す鏡
掲出歌の「われてくだけて裂けて散る」という破壊(破滅)のイメージが執拗に繰り返される下りは衝撃的である。
中世の「関東の武家」の、身内同士の「生残り権力闘争」の波に襲われて、自身が散っていくことを、実朝は眼の前の風景に重ね合わせたことだろう。
歌の前書きにある「あら磯に浪のよるを見てよめる」には、謀略の波(暗殺の予兆)が自身のところに押し寄せて来つつあるのを、目前にしていた実朝の姿を思い浮かばせるものがある。
歌人としての観察眼は、現実の猛威にも目を凝らし、アンテナを立てていたに違いない。
そう考えると掲出歌は、実朝の晩年近くの「二所詣」の際に作られた歌のように思えてくる。
骨肉の争いが絶えなかった一族の一員として生まれた実朝は、数々の謀略の波を映し出す鏡になろうとしたのか。
秀歌の評判高いこの歌を、あらためて鑑賞してみても、トウシロな私の「鑑賞基準」である「カッコ良さ」は感じられない。
ただただ破滅的なイメージが波のように押し寄せるだけである。
掲出歌を、スケールの大きな歌であると評する人もいるが、私はそうは思わない。
どんどん砕かれて散っていくような終焉のイメージに、広がりは感じられないからである。
芭蕉の波の句
ここで芭蕉を登場させるのは唐突だが、松尾芭蕉の下記の句に、私はスケールの大きさを感じている。
島々や千々に砕きて夏の海
この句に触れると、中世武家社会の「生き残りのための身内殺戮劇」からようやく救われた心持がする。
芭蕉と源義仲
そういえば芭蕉は木曾(源)義仲が好きだったようである。
大津に立ち寄ったときは、木曾義仲の墓所がある義仲寺(ぎちゅうじ)境内の無名庵にたびたび宿泊したという。
木曾義仲もまた従兄弟にあたる源義経によって滅ぼされたのであった。
芭蕉は生前に「骸(から)は木曽塚(義仲寺)に送るべし」と遺言していたという。
そして、それは実現された。
芭蕉の墓は、木曾義仲の隣に置かれている。
芭蕉の墓は、木曾義仲の隣に置かれている。
どうして義仲寺だったのだろう。
豪腕で美しく、木曾義仲に優しかった女武者「巴御前」。
そういう伝説に讃えられた「巴御前」に、芭蕉は秘かなあこがれを抱いていたのだろうか。
そういう伝説に讃えられた「巴御前」に、芭蕉は秘かなあこがれを抱いていたのだろうか。
いやいや、まさかね。
源実朝から脱線してしまった。
戯言でござった。