松尾芭蕉の江戸での生活の拠点「芭蕉庵」について
江戸名所図会「芭蕉庵」著:斎藤長秋 編[他] 長谷川雪旦画(国立国会図書館デジタルコレクションウェブサイトより転載) |
火事で消失したり、旅(おくのほそ道)に出るとき人に譲ったりして、芭蕉存命中に芭蕉庵は三度建て替えられている。
芭蕉は二十九歳(寛文十二年・1672年)の春に、専業の俳諧師を志して故郷の伊賀上野から江戸に移り住む。
江戸移住後の九年間は、都心部で俳諧師生活を送っていたという。
その九年間で、芭蕉は江戸中屈指の「俳諧点者」にのし上がる。
「俳諧点者」とは、俳諧の優劣を判定できる者の名称で、「点料」と呼ばれる報酬を得ていたという。
やがて芭蕉は「ここのせの春秋市中に住み侘びて、居を深川のほとりに移す。」と深川村に移り住む。
芭蕉は、「俳諧点者」に立地的に有利な江戸都心部をなぜ離れたのか。
- 点取競争に狂奔する当時の江戸俳壇への懐疑。
- 反俗、反実利主義の「荘子(そうし・そうじ)」思想への共鳴。
- 点者生活をやめて、俳諧を文芸として追求するため。
なお「荘子」は、中国の戦国時代の思想家。
道教の始祖のひとりとされている。
<第一次>芭蕉庵
延宝八年(1680年:三十七歳)の冬から天和二年(1682年:三十九歳)の冬まで
第一次芭蕉庵は、江戸幕府出入りの魚問屋主人である杉山杉風(すぎやまさんぷう)の生簀(いけす)の番小屋を改装したものと伝えられている。
杉風は芭蕉に師事した俳人で、江戸における芭蕉の最大のパトロンであったという。
天和元年(1681年)の春に、門人の季下から芭蕉一株を贈られ、それを草庵の庭に植える。
これが芭蕉庵の名の由来となった。
庵号が芭蕉庵になる前は、「泊船堂」としていたという。
それまで桃青と名乗っていた松尾芭蕉の俳号も、庭に植えられた芭蕉が由来である。
天和二年(1682年)十二月二十八日、江戸駒込大円寺を火元とする大火のため第一次芭蕉庵は類焼する。
その後の芭蕉の居所は未詳。
天和三年(1683年)の夏には、甲州谷村藩の家老高山繁文方に逗留とのこと。
高山繁文の俳号は、高山麋塒(びじ)。
松尾芭蕉の門人である。
芭蕉の友人である山口素堂が「芭蕉庵再建勧進簿」を作る。
新芭蕉庵の住所は、深川元番所、森田惣左衛門屋敷とされている。
第二次芭蕉庵滞在中に芭蕉は、「野晒紀行」、「鹿島紀行」、「笈の小文」、「更科紀行」と旅を続ける。
出発前の二月に、第二次芭蕉庵を平右衛門なる者に譲渡している。
元禄四年十月に江戸へ帰り着いた芭蕉は、日本橋橘町の彦右衛門方の借宅に仮住居する。
旧芭蕉庵の再入手は譲渡金額の問題で実現できず、仮寓での暮らしを余儀なくされたのだった。
第三次芭蕉庵は、杉風と枳風(きふう)が出資し、曾良と岱水(たいすい)の設計によって工事が進められ、元禄五年五月中旬に竣工。
場所は旧芭蕉庵の近くで、三部屋の間取りであったという。
この第三次芭蕉庵において「芭蕉を移す詞」や「芭蕉庵三ヶ月日記」が編まれた。
草庵は遠来の客で賑わい、句会も活況を呈していたという。
だが、結核で重態に陥っていた甥の桃印を、元禄六年の正月頃から芭蕉庵に引き取り、看病に明け暮れる日が続く。
金銭的にも精神的にも深刻な苦労が続く中、とうとう桃印が病死してしまう。
芭蕉自身も著しく体調を崩したが、仲秋の名月の頃にはやや回復。
芭蕉は老衰の自覚症状を懸念しつつ、元禄七年五月に故郷を目指して最期の旅に出る。
元禄七年十月十二日、芭蕉は大坂(大阪)で臨終を遂げ、第三次芭蕉庵は帰る主のいない草庵となった。
※参考文献 「芭蕉年譜大成」今榮藏著 角川書店
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杉風は芭蕉に師事した俳人で、江戸における芭蕉の最大のパトロンであったという。
天和元年(1681年)の春に、門人の季下から芭蕉一株を贈られ、それを草庵の庭に植える。
これが芭蕉庵の名の由来となった。
庵号が芭蕉庵になる前は、「泊船堂」としていたという。
それまで桃青と名乗っていた松尾芭蕉の俳号も、庭に植えられた芭蕉が由来である。
天和二年(1682年)十二月二十八日、江戸駒込大円寺を火元とする大火のため第一次芭蕉庵は類焼する。
その後の芭蕉の居所は未詳。
天和三年(1683年)の夏には、甲州谷村藩の家老高山繁文方に逗留とのこと。
高山繁文の俳号は、高山麋塒(びじ)。
松尾芭蕉の門人である。
<第二次>芭蕉庵
天和三年(1683年:四十歳)の冬から元禄二年(1689年:四十六歳)の初春まで¥
天和三年九月、芭蕉庵再建のため門人知友五十二名が寄付。芭蕉の友人である山口素堂が「芭蕉庵再建勧進簿」を作る。
新芭蕉庵の住所は、深川元番所、森田惣左衛門屋敷とされている。
- 「野晒紀行」貞享元年(1684年:四十一歳)秋~貞享二年(1685年:四十二歳)四月末。
- 「鹿島紀行」貞享四年(1687年:四十四歳)八月。
- 「笈の小文」貞享四年十月~元禄元年(貞享五年/1688年:四十五歳)四月。
- 京都・岐阜・大津・名古屋などに逗留 元禄元年四月~元禄元年八月
- 「更科紀行」元禄元年八月
出発前の二月に、第二次芭蕉庵を平右衛門なる者に譲渡している。
<第三次>芭蕉庵
元禄五年(1692年:四十九歳)五月中旬から元禄七年(1694年:五十一歳)五月まで
元禄二年九月に「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉は、それから二十五ヶ月のあいだ上方を漂泊している。元禄四年十月に江戸へ帰り着いた芭蕉は、日本橋橘町の彦右衛門方の借宅に仮住居する。
旧芭蕉庵の再入手は譲渡金額の問題で実現できず、仮寓での暮らしを余儀なくされたのだった。
第三次芭蕉庵は、杉風と枳風(きふう)が出資し、曾良と岱水(たいすい)の設計によって工事が進められ、元禄五年五月中旬に竣工。
場所は旧芭蕉庵の近くで、三部屋の間取りであったという。
この第三次芭蕉庵において「芭蕉を移す詞」や「芭蕉庵三ヶ月日記」が編まれた。
草庵は遠来の客で賑わい、句会も活況を呈していたという。
だが、結核で重態に陥っていた甥の桃印を、元禄六年の正月頃から芭蕉庵に引き取り、看病に明け暮れる日が続く。
金銭的にも精神的にも深刻な苦労が続く中、とうとう桃印が病死してしまう。
芭蕉自身も著しく体調を崩したが、仲秋の名月の頃にはやや回復。
芭蕉は老衰の自覚症状を懸念しつつ、元禄七年五月に故郷を目指して最期の旅に出る。
元禄七年十月十二日、芭蕉は大坂(大阪)で臨終を遂げ、第三次芭蕉庵は帰る主のいない草庵となった。
※参考文献 「芭蕉年譜大成」今榮藏著 角川書店
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