草の戸に茶を木の葉かくあらし哉

小林一茶に「焚(たく)ほどは風がくれたるおち葉かな」という句がある。

このブログで以前記事にしたこの句について「一茶は、日本の古典を題材にして句を詠むというタイプではない。
暮らしや周囲の自然からネタを得て、句を詠んでいる。」とトウシロながら私は書いたのだが、はたしてどうなのだろう?

というのは、下記の芭蕉の句を読むと、一茶の「焚ほどは風がくれたるおち葉かな」が連想されてならないからである。

芭蕉庵に入庵直後の句


草の戸に茶を木の葉かくあらし哉
松尾芭蕉

芭蕉は三十七歳のとき、江戸都心の小田原町より深川村の草庵(第一次芭蕉庵)に居を移す。
掲句は、その草庵に入庵直後の作。
延宝八年(1680年)の冬の句であるという。
句の前書きに「冬月江上に居を移して寒を侘ぶる茅舎の三句」とある。
三句のうちの「其一」が掲句。

「焚ほどは・・・」の句は、一茶の句日記である「七番日記」の文化十二年(1815年)十月の項に載っている。
一茶のこの句は、芭蕉が掲句を作ってから百三十五年後の作。

ひょっとしたら一茶は、芭蕉の「草の戸に・・・」の句を踏まえて「焚ほどは・・・」の句を作ったのではあるまいか。
和歌で言うところの「本歌取り」である。

侘しい草庵


さて、掲句の「草の戸」とは、質素で小さい家の戸のこと。
「寒を侘ぶる茅舎」の戸、芭蕉庵の入口の引き戸のことと思われる。
お茶を沸かそうと焚き木を求めて外に出たら、折からの強風のため、戸口に木の葉が吹き溜まっていたというイメージ。

その木の葉をかき集めて炉で燃やし、お茶を沸かしている様子が思い浮かぶ句である。
強風が茅葺屋根の小さな家に吹きつけ、戸口をガタガタと揺らしている侘しい光景。

芭蕉は、今まで暮らしていた都会とは違う田舎の侘しさに、しょげかえってこの句を詠んだのだろうか。
いや、鄙びた深川暮らしは、芭蕉の望み。
この侘しい世界で芭蕉は、俳諧の新境地を開こうとしたのではないだろうか。

深川大工町臨川庵の仏頂和尚(仏頂禅師)のもとで参禅をしたのは、深川移転後まもない頃であったという。
芭蕉は、この仏頂和尚から禅のことばかりでなく、一般的な教養についても感化を受けたとされている。

貞享三年の芭蕉庵での「名句」


第一次芭蕉庵は二年目に江戸の大火で全焼するが、そのあと再建された第二次芭蕉庵時代に、芭蕉は評判に上がる数々の発句を作っている。
この時期の旅先での句作のみならず、深川芭蕉庵においても活発な句作がなされていたようである。

貞享三年に入って芭蕉は芭蕉庵で、後世にまで知れ渡った「名句」を作っている。
これらの句は、芭蕉庵という独特な空間が醸し出した句のように思える。
その代表的な句を、いくつか以下に並べてみよう。

「古池や蛙(かはづ)飛び込む水の音」貞享三年春。
「よく見れば薺(なづな)花咲く垣根かな」貞享三年春中。
「名月や池をめぐりて夜もすがら」貞享三年八月十五日。
「瓶(かめ)割るる夜の氷の寝覚めかな」貞享三年十二月。
「年の市線香買いに出でばやな」貞享三年十二月。

百三十五年後の一茶の翻訳


こう書き進めると「草の戸に茶を木の葉かくあらし哉」は侘しさにしょげかえった芭蕉の句では無いと思える。
これは、この「寒を侘ぶる茅舎」こそが自身の再出発にふさわしい場所であるという句ではないだろうか。

芭蕉は、掻き集めた木の葉を焚きながら、希望に燃えていたのである。
そしてその希望は、芭蕉庵で実現しつつあった。

小林一茶は、百三十五年後に、「焚ほどは風がくれたるおち葉かな」と、芭蕉のその当時の気分を翻訳したのである。


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