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芭蕉のブラックな駄洒落?「姥桜咲くや老後の思ひ出」

「芭蕉年譜大成」寛文4年のページ。
「芭蕉年譜大成」より

姥桜咲くや老後の思ひ出(いで)
松尾芭蕉

「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」によれば、寛文四年発刊の「佐夜中山集」に入集の二句の中のひとつとされている。
芭蕉二十一歳のときの発句。
※佐夜中山集(さよのなかやましゅう):俳諧集。京都在住の俳人である松江重頼(まつえしげより)が編集。

芭蕉が、実名の松尾宗房を俳号として名乗っていた頃、実家のある伊賀上野で暮らしていた時の作である。

「姥桜」の相対するふたつの意味

「姥桜」を辞書で引くと以下のように記載されている。
  1. 葉の出るよりも先に花の咲く種類の桜の俗称。ヒガンザクラやウバヒガンなど。葉を歯と掛けて、花期に歯無しであるから姥の文字をあてている。
  2. 娘盛りの年頃を過ぎても、なお美しい器量を保っている女。
(1)は、葉(歯)のない花(女)なので、「姥桜(老婆)」という駄洒落である。
(2)は、桜は老木でも美しい花を咲かせるので、「姥でも美しい女=姥桜」ということ。
「老醜」と「美しい器量」と、「姥桜」には相対するふたつの意味が込められている。

老いても美しい女としての「姥桜」

まず、(2)の意味で「姥桜咲くや・・・」を読んでみると、そのイメージは下記のようになりはしないだろうか。
  1. 今年もこの老木に、美しい桜の花が咲いた。
  2. この桜の木も老後には朽ちて、花が咲かなくなることだろう。
  3. 老後になってから、かつて美しい花を咲かせていた頃を思い出すために、今はこうして咲いているのだなあ。
これでは、ちょっと説明的な印象のイメージである。
説明的な句からは、句の文脈に沿った明解なイメージを感じ取ることはできるのだが。
一方では、イメージの広がりが感じられずに、平坦でつまらないという印象である。
なにか、格言や諺に応用できそうな教訓的なものも垣間見える。

歯無しの老婆としての「姥桜」

それに比べて、「姥桜」(1)の視点で読むとどうであろうか。
  1. 「姥桜」は葉無し(歯無し)で咲くのであるから、咲いている「姥桜」は老婆である。
  2. 老後に達した老婆が、老後を思い出すとは、その老婆はもう冥土に入りつつあるということ。
  3. 「姥桜」は、老婆の冥土の土産に咲いているのだという芭蕉のブラックな駄洒落。
  4. それとも、「姥桜」の咲いているのを見ると、亡くなった老婆の、歯無しの滑稽な姿を思い出すなあということか。
むしろこういう傾向の方が、当時の流行に合っていたようだ。
伊賀在郷時代の芭蕉(宗房)は、「貞門風(ていもんふう)」俳諧の影響を受けていたとされている。
【※貞門風:松永貞徳(まつながていとく)を中心とする江戸時代前期の俳諧の一流派の句風。】

芭蕉の活躍

貞門風俳諧は、滑稽や駄洒落に代表される言葉遊び的な傾向の強い句風。
まだ若かった芭蕉に、自身の老後を案じる気持ちは無かっただろう。
機知に富んだ芭蕉は、当時の流行を巧みに取り入れて句を作り、新人気鋭の俳人として上野俳壇の顔になっていたという。

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