芭蕉の江戸離れの句「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」

【「西行物語(敬文堂刊)」国立国会図書館デジタルコレクションより。「風になびく・・・」の歌は左側、後ろから二番目にある。】


西行の富士の歌

「西行物語」によれば、西行は陸奥への旅の途中、東海道を東に進みながら駿河国で「風になびく富士のけふりの空にきえてゆくえも知らぬ我思ひかな」と詠んでいる。
その敬愛する西行の五百回忌の年に、芭蕉が奥州・北陸の地を行脚したのが「おくのほそ道」の旅だったが、それは「野晒紀行」の旅から五年後のこと。

「野晒紀行」の旅で芭蕉は、西行とは逆に東海道を西に進み、箱根の関にさしかかる。
箱根あたりで芭蕉は、西行の富士の歌を思い浮かべていたかもしれない。
ところが、あいにく箱根は雨降りで、周囲の山は雲に隠れて見えない。
箱根からは、雄大な富士山を望むことができたのに。
そこで芭蕉は見えない富士山を句に詠んだ。

見えない富士の句


霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
松尾芭蕉

「関越ゆる日は雨降りて、山みな雲に隠れたり」という句の前文が「野晒紀行」に書かれている。
富士山は歌枕の地である。
古来より多くの歌人たちが、富士を歌に詠んでいる。

芭蕉は、富士山が雲に隠れて見えないのなら、見えない富士を句にするのも面白いと思ったのかもしれない。
そして、それをそのまま句に詠んだのである。

箱根から雄大な富士の姿を眺めることができれば、それは旅の大きな励みになる。
上方の人々への、旅の土産話にもなる。

「初度の文学行脚の途上で雄大な富士の姿を望見できないことはとても残念なこと。
だがそれを「口惜しや」とか「無念なり」とか句に詠んだら、マイナス志向になる。
「野晒紀行」の旅は、不吉な言葉である「野ざらし」を掲げながらも、それを打ち消していく旅である。
それは、マイナス志向を打ち消していく旅でもある。
【※初度の文学行脚:「芭蕉年譜大成(著:今榮蔵)」より引用。】

「秋十とせ却って江戸を指す故郷」の句で、「野ざらしを心に風のしむ身哉」の暗雲を打ち消した。
霧と時雨の箱根では、雲に隠れて富士が見えないというマイナスを、打ち消してプラスに変えなければならない。

「秋晴れに富士」という絵に描いたような風景美よりも、むしろ「霧しぐれ」に隠れた見えない富士を描いた方が、「却って」面白いと芭蕉は思ったのではあるまいか。
西行は、富士山の噴煙が空にあがって消えていく様を「わが思ひ」と詠んだ。
芭蕉は、視界から消えた富士を「面白きと詠んだのである。
  • 【※「面白き」の「き」は過去をあらわす助動詞の「き」ではなく、形容詞「面白し」の連体形の「面白き」と解釈した。したがってこの句では「面白き」の下にくる語が省略されていると思われる。私は活用語の連体形について感動・詠嘆をあらわす「哉(かな)」ではないかと思っている。(古文のお勉強を忘れないために)】

「富士を見ぬ日」とは何か

私は上記のように感じたのだが、「富士を見ぬ日ぞ」の「日」がどうも気になる。
「日」で芭蕉は何をあらわそうとしたのだろう。

話は八年後のことになるが、元禄五年に第三次芭蕉庵が竣工したとき芭蕉は「芭蕉を移詞(うつすことば)」という俳文を綴った。
その俳文のなかに「地は富士に対して、柴門景を追ってななめなり」という文がある。
富士山を眺めることが、芭蕉にとって日々の楽しみであった。
そう伺い知れる文であると思う。

芭蕉が「野晒紀行」の旅に出立したのは、第二次芭蕉庵からであった。
第二次芭蕉庵も第三次芭蕉庵も、第一次芭蕉庵の近くに建てられた。
したがって、芭蕉が江戸深川で暮らしていた頃は、晴れていれば富士山を望み見ることが出来る環境にいたことになる。
それが芭蕉庵での日常だった。

新たな俳諧生活の「日」

こう考えると、「富士を見ぬ日ぞ」の「日」は、芭蕉が江戸で富士を眺めて暮らしていた日々を示唆していると考えられる。
「初度の文学行脚」で富士山の近くにさしかかったとき、富士は霧と時雨のために見えなかった。
そして旅を続ければ、江戸深川芭蕉庵から遠ざかり、「富士を見ぬ日」が新たな日常になる。
それは同時に江戸での「俳諧生活」から遠ざかり、「新たな旅の俳諧生活」に暮らすことになる。

そういう「新たな日常=新たな俳諧生活」もまた興味深いものであるという芭蕉の感慨。
その感慨が込められた「日」なのではあるまいか。

「旅先での新たな俳諧生活」は新たな創作につながるかもしれない。
芭蕉は、「富士を見ぬ日」である「新たな俳諧生活」を「面白き哉」と句に詠んだ。
そうやって、雲に隠れた富士の横を意気揚々と通り過ぎたことだろう。

旅の同行者の紹介文

「野晒紀行」では、掲句の後に同行者である苗村千里(なえむら ちり)の紹介文が続く。

「何某(なにがし)ちりと云いけるは、此(この)たびみちのたすけとなりて、萬(よろづ)いたはり心を盡(つく)し侍る。常に莫逆(ばくげき)の交(まじはり)ふかく、朋友信有(ある)哉此(この)人。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。

以下は、私の現代語訳。
「何とかいう名字のちりという者は、今回の旅の助けになってくれている人で、いろいろと気を配って世話をすることに心をつくしている。普段から親しい間柄でつきあいもふかく、この人は信用のおける友人である。」

芭蕉を富士に預け行く

芭蕉は同行者をほめたたえ、その文の後に「深川や芭蕉を富士に預行(あづけゆく)」という苗村千里の句を載せている。
芭蕉がこの箇所に千里の句を配置したのは、まさにこの句を「みちのたすけ」とするためだったのではあるまいか。

千里の句は「旅で留守にしている江戸深川よ、富士山が見れなくて心残りな芭蕉を富士山に預けていくよ。」ということではないであろう。
なぜなら「深川や芭蕉を富士に預行(あづけゆく)」は、「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」に呼応して作られたものと思うからである。

芭蕉の新たな俳諧模索の句

それは、「江戸深川よ、芭蕉庵で富士山を眺めていた頃の芭蕉を、富士山に預けていくよ。」という意味合いを含んでいる句なのではないだろうか。

千里が富士山に預けたのは「富士を見る日>江戸深川芭蕉庵での日常的な俳諧」だったのだろう。

そして千里が此(この)たびみちのたすけとなりて、萬(よろづ)いたはり心を盡(つく)し」たのは、【芭蕉の富士を見ぬ日>芭蕉の「初度の文学行脚」>芭蕉の新たな俳諧模索】だったのではあるまいか。

芭蕉の江戸離れの句は、芭蕉の旅立ちの句。
「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」は、新たな俳諧模索の句だったのだと私は感じている。


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