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逢魔時のシャドー

2021/06/07
【夕暮れの川景色。】


夕方の散歩で、愛犬が西陽にしびを背に歩き出した。
久しぶりに川へ行くつもりなのだ。
街はずれを流れている川のそばを歩くのが、愛犬の好みのコースのひとつだった。
 
街は、日暮れ前の混雑で騒がしい。
買物客であふれたスーパーの横から、住宅街に入った。
しばらく歩いて、くすんだ色合いの小路を抜けると、広い湿地に出る。

かやが生い茂る湿地は、中世の頃までは河川敷であったらしい。
湿地のなかに、一本の乾いたみちが通っている。
その径の奥に、こじんまりと築かれた堤が見えた。

堤の上からは、雪雲をかぶった山並みが見渡せた。
川は、山の中腹あたりから流れてくる。
その流れがここまで届くのに、どれぐらいの時間がかかるのだろう。
ふとそんなことを思って川面を見下ろすと、鴨が列を組んで泳いでいた。

夜のねぐらをさがして、さまよっているのだろう。
まるで、鴨の放浪家族のように。

キラキラと小波に揺らめく川面。
しだいに濃い影を落としていく夕暮の川景色はわびしい。
あの鴨たちは、もとは人間だったのかもしれない。
不安におびえる家族のように、寄り添って泳いでいる鴨の姿にそんな空想が湧いた。
それは、妙になつかしい光景だった。

ひょっとしたら俺は、鴨の群れからはぐれた人間なのでは。
人間の群れからはぐれ、鴨の群れからもはぐれてしまった哀れな男。
愛犬は、そんな俺の感傷におかまいなしだ。
土手道の端で、草むらの匂いを嗅いでいる。

歩くにしたがって、周囲の茅の背丈が伸びてきた。
茅の穂に視界をさえぎられて、もう街は見えない。
さきほどの夕暮の喧騒がうそのようである。

夕暮の風に、背の高い茅の群れがゆったりと揺れている。
その奥から、ガサガサと音が聞こえた。
音のするほうに目をやると、茅のやぶの中から背の高い女が現れた。
つばの広い帽子。
川風に黒いロングドレスがなびいている。
女は、小さな犬を堤に引っ張り上げた。

女の大きな口が、俺を見つけて「こんにちは」という声をもらした。
獲物に狙いをさだめて押し殺した、獣の息のようだった。
暗くなりかけてはいるが、「こんばんわ」にはまだ早い。
黄昏時、またの呼び名は逢魔時おうまがときである。

「いつもこちらをお散歩?」と女の目が妖しく光っている。
「いや、うちの犬が、たまたまこっちに来たものだから」と俺。
「えっ」と女は、びっくりした様子。
「主人であるあんたが犬の後をついて来たのかい」と女は赤い口を大きく開けた。
初対面なのになれなれしい女の口調に腹が立った
「あたりまえだろ、犬の散歩なんだから」と俺。
「それじゃ主従関係が逆じゃないの」と舌なめずりをする女。

「主従関係って?」
「人間が犬を従えなきゃ、犬はわがままなしもべになってしまうだろう」と女。
愛犬は、草喰いに夢中で、ムシャムシャと音をたてている。
女が連れている子犬は、草喰い犬をじっと見ている。
その顔つきが、人間の子どものように見えた。

「主人の命令をきかない犬になってしまうだろう」と女。
「いや、そんなことはありますめい」
「主人」とか「命令」とか言うのを聞いて、急に俺は下僕ことばになってしまった。
これはまずい。
女のきつい口調に圧倒されてしまっている。
このままでは、魔法をかけられ、魔女に飲み込まれてしまう。
そんな幻想にとらわれて、俺は身構えた。
胸元でこぶしを構えて、シャドーボクシングをはじめたのだ。

「おまえは誰になぐりかかっているのだい」
魔女は驚いた様子で俺にたずねた。
「俺の影をこらしめているのさ。こいつは恐ろしい魔物で、俺のしもべなんだ。あんたにこいつが見えないのかい」
ストレートやフックの連打をくりだしながら、俺は叫んだ。
体が熱くなって勇気が出てきた。
魔女を追い払うために、俺は激しいシャドーを繰り返した。

魔女は、見えないやつがよほど恐ろしかったのだろう。
「チッ」とくやしそうに舌打ちをした。
「まあ・・・とんでもないこと」
魔女は急にしょんぼりとなった。
「さあ、ジャック、帰りますわよ」
女は、じっと待っているジャックに号令をかけた。
「ジャック、レッツゴーホーム」

オスワリをしていた犬が、ピョコンと立ち上がって回れ右をした。
ジャックは、鴨のように腰を振り振り、女のあとをついていく。
魔女のロングドレスのシルエットが、みるみる暗がりのなかへ消えていった。
 
愛犬は、口の端から細長い草の切れ端を垂らして、横目で魔女を見送った。
俺は、垂れた草の葉を犬の口から取り出して、口のまわりのヨダレをタオルでぬぐった。

「誰がなんと言おうと、散歩のときは、犬がご主人様さ」
愛犬に語りかけると、愛犬はうれしそうに尾を振った。

街は暮れて、空から小雪が舞って。
川の方からは、ガーガーと鳴く鴨の声が聞こえた。
それが俺には、安堵の鳴き声のように聞こえて、妙になつかしかった。


【雪をかぶった山。】

【川面の鴨】



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