2018/11/04

逢魔時のシャドー

【夕暮れの川景色。】


夕方の散歩で、愛犬が西陽にしびを背に歩き出した。
久しぶりに川へ行くつもりなのだ。
街はずれを流れている川のそばを歩くのが、愛犬の好みのコースのひとつだった。
 
街は、日暮れ前の混雑で騒がしい。
買物客であふれたスーパーの横から、住宅街に入った。
しばらく歩いて、くすんだ色合いの小路を抜けると、広い湿地に出る。

かやが生い茂る湿地は、中世の頃までは河川敷であったらしい。
湿地のなかに、一本の乾いたみちが通っている。
その径の奥に、こじんまりと築かれた堤が見えた。

堤の上からは、雪雲をかぶった山並みが見渡せた。
川は、山の中腹あたりから流れてくる。
その流れがここまで届くのに、どれぐらいの時間がかかるのだろう。
ふとそんなことを思って川面を見下ろすと、鴨が列を組んで泳いでいた。

夜のねぐらをさがして、さまよっているのだろう。
まるで、鴨の放浪家族のように。

キラキラと小波に揺らめく川面。
しだいに濃い影を落としていく夕暮の川景色はわびしい。
あの鴨たちは、もとは人間だったのかもしれない。
不安におびえる家族のように、寄り添って泳いでいる鴨の姿にそんな空想が湧いた。
それは、妙になつかしい光景だった。

ひょっとしたら俺は、鴨の群れからはぐれた人間なのでは。
人間の群れからはぐれ、鴨の群れからもはぐれてしまった哀れな男。
愛犬は、そんな俺の感傷におかまいなしだ。
土手道の端で、草むらの匂いを嗅いでいる。

歩くにしたがって、周囲の茅の背丈が伸びてきた。
茅の穂に視界をさえぎられて、もう街は見えない。
さきほどの夕暮の喧騒がうそのようである。

夕暮の風に、背の高い茅の群れがゆったりと揺れている。
その奥から、ガサガサと音が聞こえた。
音のするほうに目をやると、茅のやぶの中から背の高い女が現れた。
つばの広い帽子。
川風に黒いロングドレスがなびいている。
女は、小さな犬を堤に引っ張り上げた。

女の大きな口が、俺を見つけて「こんにちは」という声をもらした。
獲物に狙いをさだめて押し殺した、獣の息のようだった。
暗くなりかけてはいるが、「こんばんわ」にはまだ早い。
黄昏時、またの呼び名は逢魔時おうまがときである。

「いつもこちらをお散歩?」と女の目が妖しく光っている。
「いや、うちの犬が、たまたまこっちに来たものだから」と俺。
「えっ」と女は、びっくりした様子。
「主人であるあんたが犬の後をついて来たのかい」と女は赤い口を大きく開けた。
初対面なのになれなれしい女の口調に腹が立った
「あたりまえだろ、犬の散歩なんだから」と俺。
「それじゃ主従関係が逆じゃないの」と舌なめずりをする女。

「主従関係って?」
「人間が犬を従えなきゃ、犬はわがままなしもべになってしまうだろう」と女。
愛犬は、草喰いに夢中で、ムシャムシャと音をたてている。
女が連れている子犬は、草喰い犬をじっと見ている。
その顔つきが、人間の子どものように見えた。

「主人の命令をきかない犬になってしまうだろう」と女。
「いや、そんなことはありますめい」
「主人」とか「命令」とか言うのを聞いて、急に俺は下僕ことばになってしまった。
これはまずい。
女のきつい口調に圧倒されてしまっている。
このままでは、魔法をかけられ、魔女に飲み込まれてしまう。
そんな幻想にとらわれて、俺は身構えた。
胸元でこぶしを構えて、シャドーボクシングをはじめたのだ。

「おまえは誰になぐりかかっているのだい」
魔女は驚いた様子で俺にたずねた。
「俺の影をこらしめているのさ。こいつは恐ろしい魔物で、俺のしもべなんだ。あんたにこいつが見えないのかい」
ストレートやフックの連打をくりだしながら、俺は叫んだ。
体が熱くなって勇気が出てきた。
魔女を追い払うために、俺は激しいシャドーを繰り返した。

魔女は、見えないやつがよほど恐ろしかったのだろう。
「チッ」とくやしそうに舌打ちをした。
「まあ・・・とんでもないこと」
魔女は急にしょんぼりとなった。
「さあ、ジャック、帰りますわよ」
女は、じっと待っているジャックに号令をかけた。
「ジャック、レッツゴーホーム」

オスワリをしていた犬が、ピョコンと立ち上がって回れ右をした。
ジャックは、鴨のように腰を振り振り、女のあとをついていく。
魔女のロングドレスのシルエットが、みるみる暗がりのなかへ消えていった。
 
愛犬は、口の端から細長い草の切れ端を垂らして、横目で魔女を見送った。
俺は、垂れた草の葉を犬の口から取り出して、口のまわりのヨダレをタオルでぬぐった。

「誰がなんと言おうと、散歩のときは、犬がご主人様さ」
愛犬に語りかけると、愛犬はうれしそうに尾を振った。

街は暮れて、空から小雪が舞って。
川の方からは、ガーガーと鳴く鴨の声が聞こえた。
それが俺には、安堵の鳴き声のように聞こえて、妙になつかしかった。


【雪をかぶった山。】

【川面の鴨】



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