駿河から伊勢神宮へ「みそか月なし千とせの杉を抱くあらし」
大井川の川越
芭蕉一行は大井川にさしかかる。
富士川は舟に乗っての川越(かわごし)だった。
一方大井川は、馬や人足を利用しての川越になる。
一方大井川は、馬や人足を利用しての川越になる。
雨が降り続いて川が増水すると、旅人は何日も川留(かわどめ)の憂き目をみる。
芭蕉と千里(ちり)の一行も、雨のために足が止まったようである。
「野晒紀行」には、「大井川越(こゆ)る日は、終日(ひねもす)雨降(ふり)ければ、」とある。
芭蕉はこの文の後に同行者千里(ちり)の句を置いた。
芭蕉はこの文の後に同行者千里(ちり)の句を置いた。
「指おらん」の「ん」は、推量をあらわす助動詞「む」の変形の「ん」。
「江戸に指おらん」は、江戸では指を折って数えていることだろうというような「意味」かと思われる。
この秋の長雨は、江戸にも降っているだろうか。
江戸では、旅立ってからの日数を指折り数えて、芭蕉がどのあたりを歩いているか話題になっていることだろう。
だが、私達は東海道の難所であるこの大井川をまだ越せないでいる。
という句のイメージと思われる。
両方とも沈んだ句調となっている。
捨て子に出会ってから、ちょっと説明的な字余り句になった。
そのせいか、イメージの広がりが乏しくなってしまったように思われる。
千里(ちり)の句の後は、「馬上吟(ばじょうのぎん)」と前書きされた芭蕉の「道のべの木槿は馬にくはれけり」という句が続く。
この句は前出の句と違って、リズミカルである。
でも、この句をそのまま鑑賞すれば、ちょっと状況説明的であり、イメージの広がりを感じ取るには難しい。
「イメージの広がり愛好者」の私としては、ちょっと物足りない句である。
「廿日餘(あまり)の月かすかに見えて、山の根際(ねぎわ)いとくらきに、馬上に鞭(むち)をたれて、数里いまだ鶏鳴(けいめい)ならず。杜牧(とぼく)が早行(さうかう)の残夢、小夜の中山に至りて忽(たちまち)驚(おどろ)く。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。
以下、私の現代語訳。
「二十日を過ぎた頃の月がかすかに見えて、そのせいか山麓の道がかなり暗くて見えにくいなかを、馬の上に鞭をぶら下げて、数里すすんだが、まだ一番鶏の鳴き声がない。中国の詩人杜牧(とぼく)が朝早く立つときに見たという残夢にうつらうつらしていたら、小夜の中山という谷がけわしい場所を通っていたので、いつのまにと驚いて目が覚めた。」
ここでは、中国の漢詩に造詣が深いという芭蕉が、その素養のほどを垣間見せている。
というか、杜牧の漢詩「早行」の世界を、芭蕉が観客に演じてみせているような場面である。
この文の後に芭蕉の句「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」が置かれている。
この間特筆すべきことがなかったのか、「小夜の中山」から伊勢までは空白である。
以下は、伊勢のくだりの文章。
「松葉屋風瀑(ふうばく)が伊勢に有(あり)けるを尋音信(たづねおとづれ)て、十日許(ばかり)足をとゞむ。腰間に寸鐵をおびず。襟(えり)に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠(たま)を携(たづさ)ふ。僧に似て塵(ちり)有(あり)。俗にゝて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属(ぞく)にたぐへて、神前に入(いる)事をゆるさず。
暮(くれ)て外宮(げぐう)に詣(まうで)侍りけるに、一ノ華表(とりゐ)の陰ほのくらく、御燈(みあかし)處ゝ(ところどころ)に見えて、また上もなき峯(みね)の松風、身にしむ計(ばかり)、ふかき心を起(おこ)して、」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。
以下、私の現代語訳。
「松葉屋風瀑が伊勢の家に帰っていると便りがあったので訪問して十日ほど滞在した。私の姿形は、腰に小刀を着けず、襟のあたりに袋をひとつかけて、手に数珠を持っている。僧侶のように見えないこともないが、身は俗世間の塵にまみれている。世間の一般人にも見えるが剃髪している。私は僧侶ではないと言っても、神宮側に僧侶の仲間とみなされて、神前に入ることを許してくれない。
説明的な字余り句
旅の出発に際しては、「野ざらしを心に風のしむ身哉」とか「秋十とせ却って江戸を指す故郷」とか名調子で詠いあげていたのに。捨て子に出会ってから、ちょっと説明的な字余り句になった。
そのせいか、イメージの広がりが乏しくなってしまったように思われる。
千里(ちり)の句の後は、「馬上吟(ばじょうのぎん)」と前書きされた芭蕉の「道のべの木槿は馬にくはれけり」という句が続く。
この句は前出の句と違って、リズミカルである。
でも、この句をそのまま鑑賞すれば、ちょっと状況説明的であり、イメージの広がりを感じ取るには難しい。
「イメージの広がり愛好者」の私としては、ちょっと物足りない句である。
杜牧の「早行」を演じる
「道のべの」の句の後に、芭蕉の紀行文が続く。「廿日餘(あまり)の月かすかに見えて、山の根際(ねぎわ)いとくらきに、馬上に鞭(むち)をたれて、数里いまだ鶏鳴(けいめい)ならず。杜牧(とぼく)が早行(さうかう)の残夢、小夜の中山に至りて忽(たちまち)驚(おどろ)く。」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。
以下、私の現代語訳。
「二十日を過ぎた頃の月がかすかに見えて、そのせいか山麓の道がかなり暗くて見えにくいなかを、馬の上に鞭をぶら下げて、数里すすんだが、まだ一番鶏の鳴き声がない。中国の詩人杜牧(とぼく)が朝早く立つときに見たという残夢にうつらうつらしていたら、小夜の中山という谷がけわしい場所を通っていたので、いつのまにと驚いて目が覚めた。」
ここでは、中国の漢詩に造詣が深いという芭蕉が、その素養のほどを垣間見せている。
というか、杜牧の漢詩「早行」の世界を、芭蕉が観客に演じてみせているような場面である。
この文の後に芭蕉の句「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」が置かれている。
駿河から伊勢へ
さて、「野晒紀行」の旅は、駿河からあっというまに伊勢に入る。この間特筆すべきことがなかったのか、「小夜の中山」から伊勢までは空白である。
以下は、伊勢のくだりの文章。
「松葉屋風瀑(ふうばく)が伊勢に有(あり)けるを尋音信(たづねおとづれ)て、十日許(ばかり)足をとゞむ。腰間に寸鐵をおびず。襟(えり)に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠(たま)を携(たづさ)ふ。僧に似て塵(ちり)有(あり)。俗にゝて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属(ぞく)にたぐへて、神前に入(いる)事をゆるさず。
暮(くれ)て外宮(げぐう)に詣(まうで)侍りけるに、一ノ華表(とりゐ)の陰ほのくらく、御燈(みあかし)處ゝ(ところどころ)に見えて、また上もなき峯(みね)の松風、身にしむ計(ばかり)、ふかき心を起(おこ)して、」芭蕉紀行文集(岩波文庫)より引用。
以下、私の現代語訳。
「松葉屋風瀑が伊勢の家に帰っていると便りがあったので訪問して十日ほど滞在した。私の姿形は、腰に小刀を着けず、襟のあたりに袋をひとつかけて、手に数珠を持っている。僧侶のように見えないこともないが、身は俗世間の塵にまみれている。世間の一般人にも見えるが剃髪している。私は僧侶ではないと言っても、神宮側に僧侶の仲間とみなされて、神前に入ることを許してくれない。
夕暮れになってから伊勢神宮外宮にお参りしたとき、一の鳥居の後ろ側がほの暗く、お灯明がところどころに見えて、限りもなく尊い峰の松風が、身にしみて感じられるほど深い感動をおぼえて、」
松葉屋風瀑宅に十日も滞在しても、この屋敷での特筆すべきことが何もなかったのか、ここも空白。
みそか月なし千とせの杉を抱くあらし
「みそか月なし」とは、晦日には月が籠もって出てこないという「暦情報」そのまま。
「千とせの杉」は樹齢が千年を越えているであろうと言われる杉のこと。
この千年杉は、伊勢神宮のご神木のひとつになっている神聖な木であるのかもしれない。
そんな神聖な木を、抱いて揺すっているように吹いている強風。
千年の歳月に比べれば、この「あらし」の時間は一瞬の出来事であろう。
「みそか月なし」と吟ずることで、千年の時間を一瞬のうちに揺すっている夜の臨場感を芭蕉は描き出している。
と同時に、大自然の力を備えた「天」の存在感をも描き出しているように思われる。
この句は、伊勢神宮の社殿も神木も「天」によって抱かれた存在なのだという芭蕉の感慨のようにも読み取れる。
月のない闇空と伊勢神宮の境内。
上空と、地上の千年杉との対比。
この句を図式的に読むと、上空の闇と伊勢神宮を結んでいるのが「あらし」ということになりはしないだろうか。
「みそか月なし」の闇空が長い腕のような「あらし」を伸ばして、神宮境内の「千とせの杉」を抱いているのだ。
話はそれるが、この句も字余りである。
上の句の「みそか月なし」が七文字になっている。
意味的に言えば、「みそか月なし」は「みそか月」とイコールである。
なので、上の句を「みそか月」と詠んだ方が五文字ですっきりするのではないかと、トーシロ的には考えたりするのであるが。
まさか、「なし」と「あらし」とで韻を踏もうとしたのではあるまい。
いや、韻を踏んで強調したかった「月なし」とは何なのだろう。
と、ここで私はとんでもないことを思いついた。
「あらし」は「嵐」のことではなく、「あるらし」の変形の「あらし」なのではあるまいか。
「あらし」の意味は、「あるらしい」とか「あるにちがいない」とかである。
こう考えると、芭蕉が「みそか月なし」にこだわった理由がわかるような気がする。
今夜は晦日で月が出ないが、もし月が出ていたなら、この神聖な千年杉を月が抱くようにして光り輝いていたことだろう。
いや、そういう月を見たかったのだが、「月なし」とは残念だ。
こういうイメージの句だとすると、この句は「千とせの杉」の姿に感動した芭蕉が「千とせの杉」と「見えない月」を讃えた句ということになる。
まったくトーシロ(私)のくせに、実にとんでもないことを考えるものである。
静岡の「小夜の中山」では、杜牧の漢詩「早行」を引用したり。
松葉屋風瀑宅に十日も滞在しても、この屋敷での特筆すべきことが何もなかったのか、ここも空白。
「あらし」は「嵐」ではなく「あるらし」か?
「また上もなき峯の松風、身にしむ計、ふかき心を起して、」の後に芭蕉の以下の発句が続く。みそか月なし千とせの杉を抱くあらし
「みそか月なし」とは、晦日には月が籠もって出てこないという「暦情報」そのまま。
「千とせの杉」は樹齢が千年を越えているであろうと言われる杉のこと。
この千年杉は、伊勢神宮のご神木のひとつになっている神聖な木であるのかもしれない。
そんな神聖な木を、抱いて揺すっているように吹いている強風。
千年の歳月に比べれば、この「あらし」の時間は一瞬の出来事であろう。
「みそか月なし」と吟ずることで、千年の時間を一瞬のうちに揺すっている夜の臨場感を芭蕉は描き出している。
と同時に、大自然の力を備えた「天」の存在感をも描き出しているように思われる。
この句は、伊勢神宮の社殿も神木も「天」によって抱かれた存在なのだという芭蕉の感慨のようにも読み取れる。
月のない闇空と伊勢神宮の境内。
上空と、地上の千年杉との対比。
この句を図式的に読むと、上空の闇と伊勢神宮を結んでいるのが「あらし」ということになりはしないだろうか。
「みそか月なし」の闇空が長い腕のような「あらし」を伸ばして、神宮境内の「千とせの杉」を抱いているのだ。
話はそれるが、この句も字余りである。
上の句の「みそか月なし」が七文字になっている。
意味的に言えば、「みそか月なし」は「みそか月」とイコールである。
なので、上の句を「みそか月」と詠んだ方が五文字ですっきりするのではないかと、トーシロ的には考えたりするのであるが。
まさか、「なし」と「あらし」とで韻を踏もうとしたのではあるまい。
いや、韻を踏んで強調したかった「月なし」とは何なのだろう。
と、ここで私はとんでもないことを思いついた。
「あらし」は「嵐」のことではなく、「あるらし」の変形の「あらし」なのではあるまいか。
「あらし」の意味は、「あるらしい」とか「あるにちがいない」とかである。
こう考えると、芭蕉が「みそか月なし」にこだわった理由がわかるような気がする。
今夜は晦日で月が出ないが、もし月が出ていたなら、この神聖な千年杉を月が抱くようにして光り輝いていたことだろう。
いや、そういう月を見たかったのだが、「月なし」とは残念だ。
こういうイメージの句だとすると、この句は「千とせの杉」の姿に感動した芭蕉が「千とせの杉」と「見えない月」を讃えた句ということになる。
まったくトーシロ(私)のくせに、実にとんでもないことを考えるものである。
芭蕉の引用
芭蕉は伊勢神宮外宮にお参りしたとき、西行の「山家集」にある「深く入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風」の歌を紀行文に引用している。静岡の「小夜の中山」では、杜牧の漢詩「早行」を引用したり。
「野晒紀行」のこのくだりには、実に引用が多い。
芭蕉同様の「知的な資料」をもちあわせなくては、読者は芭蕉が表現している世界に近づけないのだろうか。
多くの芭蕉読者は、謎掛けや呪文のような芭蕉句を遠ざけ、身近に感じられる発句を傍に引き寄せて、それらを自身の「知的な資料」としているのかもしれない。
などと、西行や中国の漢詩に疎い私は、ただとぎれとぎれの感想をいだくばかり。
ただ、杜牧の「早行」は、高校の漢文の授業で習ったような記憶がかすかにある。
なお芭蕉は、「野晒紀行」の旅も含めて、生涯に六度伊勢神宮に参宮し数多くの句を残したとされる。
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