タワシの私
眠りからさめたら、私はタワシだった。
農婦の大きな手に握られて、桶の内側をこすっていた。
ザザザと慣れた手つきで桶の汚れを落としている。
熟練した仕事ぶりは、見ていて気持ちがいい。
そう思ったとき、私はタワシであることを実感した。
下手な手つきの人には握られたくないものだと思った。
桶の中を無駄なく動き回る。
それは舞踏のようでもあった。
その動きが繰り返されるうちに、私の脳裏にあるイメージが浮かんだ。
それは死のイメージである。
私は子どもの頃から「繰り返す」ものに「死のイメージ」を感じることがあった。
「死のイメージ」というよりも、「死を招いているイメージ」というほうが当たっている。
たとえば櫓をギッチラギッチラ漕ぎながら岸を離れていく川舟。
編笠を目深にかぶった船頭。
川面からあがる白い靄。
そんな光景のなか、繰り返される櫓の動きに私は「死を招いている」ような印象を抱いたのだった。
通夜で坊さんがポクポクと木魚を叩く。
永遠に続くようなその繰り返しに、「死を招いている」イメージは拭い得ない。
オイデオイデと手招きしながら私を呼んでいる。
私の死を招いているのだ。
私がいて、私の死がいて。
するとこれは、私の死というもう一人の私の世界なのか。
タワシというもう一人の私。
私が洗っている桶は、私の亡骸がおさまる棺桶なのか。
座棺で土葬。
私が子どもの頃の村では、みんなそうだった。
いやおかしい。
棺桶は、一生に一度のものだから新品のはずである。
ところがこの桶は汚れている。
底のほうには黒いシミのようなものがついている。
よっぽど使い込まれている桶なのだ。
使い回しの棺桶なんてありえない。
桶を洗い終えた農婦は、私を井戸のそばに敷かれた板の隅に置いた。
その板の上には、無数の立派な大根が泥付きのまま積まれていた。
ははん、次は大根の泥落としだな。
してみると、この桶は棺桶ではない。
漬物用の大きな樽なのだ。
今の時代は火葬である。
もしもう一人の私が死んだのなら、私の体は白木の箱に収まって、今頃は市営の火葬場で焼かれているころではあるまいか。
そんなことを思いながら、私は大根の泥を落とした。
土のついた大根がみるみる白くなっていく。
この仕事は、タワシとして気分がいい。
肉を焼かれて骨になっていく私と、大根を生き生きと洗っているタワシ。
肉体は滅んでいくが、私の死は仕事を楽しんでいる。
ああ、死とはこんなものだったのか。
死んでみなければわからないものだ。
無数の大根を手際よく洗い終えた農婦は、私に付いた泥をきれいに洗い落として、私を流しの棚の上に置いた。
晩秋の穏やかな陽が、濡れた私を包んでいる。
タワシの毛が陽に輝いてみずみずしい。
私がこんなにもみずみずしかったことがあっただろうか。
などと感慨にふけっているとサクサクと音がした。
私の目の前で農婦が大根を切っている。
大根を巧みに薄く切るそのスピードが素晴らしい。
それにしても切れ味のいい包丁である。
こんな包丁なら、きっとおいしい千枚漬けができるにちがいない。
サは、大根の肉を切る音。
クは、包丁がまな板に軽く触れる音。
サクサクと規則正しい動きを繰り返す包丁。
この包丁もまた、どなたかの死なのか。
サは、どこかで暮らしている人。
クは、死というもうひとりの人
なんとシャープな死なのだろう。
この包丁も腕の良い農婦に使われて気分がいいことだろう。
輪切りにされた大根の切り口が艷やかである。
この死は美しい仕事をしている。
きっと頭の良い美しい人だったに違いない。
私の人生は、ジャガイモのような泥臭い人生だった。
だから私の死は、タワシなのだろう。
それはそれで悔いはない。
泥落としのタワシに満足している。
いい死である。
などと思っていたら、少しづつわかってきた。
死ぬということは肯定することなのだ。
すべてを肯定しなければ、死んでなんかいられない。
死んでも尚否定する者が、化けて出るのだろう。
そう空想しながら包丁の繰り返しを眺めていたら、眠くなってきた。
秋の陽だまりは心地よい。
暑くなく寒くなく。
サクサクサクという音に誘い込まれて私は眠った。
繰り返しは「死を招いている」イメージ。
死んでもなお、死を招くものなのか。
永遠に続く繰り返し。
サクサクサク・・・・・・
川岸で誰かが呼んでいる。
編笠の船頭は、顎をあげて岸を振り返った。
だが、誰も見えない。
あれは弔いの声なのか。
あたりには視界を遮る白い靄が立ちこめている。
川岸の林がぼんやりと黒く見える。
船頭が手を止めたので、川舟は流れに押されてゆっくりと弧を描いた。
「いくもよし、もどるもよし、すべてよし」
船頭が、歌うようにつぶやいた。
すべてを肯定しなければ、死んでなんかいられない。
舟の上の私は、船頭にコクリと頷いた。