雑談散歩

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さらば愛しき女よ

「オイ!なめるんじゃねーよ!」

すぐ耳のそばで怒鳴り声が聞こえた。
私は、身構える余裕もなく、声の出どころを目で追っていた。
しかし、私のすぐそばにも、あたりにも人影はなかった。

探偵を生業にしていると、この手の脅し文句を浴びる機会は多い。
そんな文句に慣れてはいるものの、耳のすぐそばで怒鳴られるとたじろいでしまう。

私は、小説に出てくる探偵のように、タフじゃないし、肝もすわってはいない。
臆病で、疑り深くて、慎重な調査員なのだ。
そのおかげで、今日までこの仕事を続けてこられた。

「おいキョロキョロしてんじゃねーよ」

「ねーよ」を長く伸ばす口癖に聞き覚えがあった。
あれは、誰だったろう。

私は唾を飲み込んだ。
三ヶ月ほど前から、右下顎の奥歯がグラグラ動いていた。
正確には、第二大臼歯。

その揺れの幅が、だんだん大きくなっている。
私が、動く奥歯を気にして、舌でいじるせいもあって、奥歯のグラグラはどんどん酷くなっていた。

唇をなめた舌が、また、その奥歯へ触れた。

「オイ!なめるんじゃねーよって言ってんだろう!」
やはり、怒鳴り声は耳のすぐ近くから聞こえる。
私は、姿の見えない男に向かって言った。

「いったいあんたは誰なんだ、どこにいるんだ」

「忘れたかい、スエだよ」
スエという呼び名と「ねーよ」という口癖がつながって、私の懐かしい記憶が蘇った。
スエは私の中学時代の同級生で、その地方一帯に悪名がとどろいた不良だった。
その乱暴さ、その残虐さにおいてピカイチの不良中の不良だったのである。

私は中学時代、スエによくいじめられた。
殴られたり蹴られたりしたのだったが、私に対するそんな暴行があるときを境にパッタリと止んだ。

それは北国の村にドカ雪が降った日だった。
スエは、雪の降り積もった田んぼで、私を殴ったり蹴ったりしたのだったが、その日はそれで収まらなかった。

倒れた私の体に馬乗りになって、私の首を締めはじめたのだった。
首を締めながら、グイグイと私の頭を雪の中へ押し込んだ。
このままだと、スエに殺されてしまうと思った。

私は、首に力を入れて、雪に埋まった頭を左右に激しく振った。
スエの手から逃れようと必死に抗ったのだ。

すると、スエの上体のバランスが崩れ、私の首を締めていた右手の親指が、私の口の端にずれてきた。
私は、その親指に思いっきり噛みついた。

「ギャーッ!」という悲鳴が、広い雪原に響いた。

スエは手をプラプラさせながら、ヨロヨロと立ち上がった。
スエの親指の根元から血があふれて、私の顔に滴り落ち、私の周囲の雪を赤く染めていた。


翌日の早朝、スエを従えた彼の母親が私の家に怒鳴り込んできた。
スエの母親は、村の人たちからトミエさんと呼ばれていた。

トミエさんは、村いちばんの美人だった。
その美貌は、全国レベルでも通用するものだと囁かれていたほどだった。
背が高くてスタイル抜群。
彼女のスラリと伸びた白い脚は、村の若者達の羨望の的だった。
子どもの頃の私は、何度その美しい脚を盗み見したことだろう。

トミエさんは、美しい顔を妖しくゆがめて、私の父に食ってかかった。
「うちのスエはおたくのガキのおかげで、指を失くすとこだったんだよ。七針も縫ってこのザマさ、どうしてくれんだよ!」

スエの腕をとって、それを父の目の前に差し出しながら、そう怒鳴った。
スエの腕は、手首から指の先まで白い包帯でグルグル巻かれていた。
包帯のいちばん膨らんだあたりに、うっすらと血が滲んでいた。

スエは黙って、彼の母親に腕をあずけたまま、じっと上の方を眺めていた。
気の弱い私の父は、スエの母親に相当額のお金を払ったらしい。
父は「おまえはワレを殺す気か」と涙声で私に嘆いた。
スエの父親のタカはヤクザ者であるという村の評判だった。

それから中学を卒業するまで、スエとは目立った接触はなかった。
私に対するスエの暴行は、ぱったりと止んだのだ。

トミエさんとは村の道路ですれ違ったりしたが、トミエさんは相変わらず美しかった。
私は、あの事件以来、トミエさんをより身近に感じていた。
私はトミエさんに憎まれながらも、なぜかトミエさんに認められたような気になっていた。

あれから何年たっただろう。
私は、またこうしてスエと出会う羽目になったのだ。
ところで、そのスエはどこにいるのか。

「キョロキョロすんじゃねーよ、ここだよここ。おめえの汚い口の中だよ」

「えっ!」
スエの声が耳のすぐそばで聞こえていたのはそういうことだったのか。
私は、グラグラ動いている奥歯を、舌でそっと押してみた。

「なめんなって言ってるだろう!」
スエの怒鳴り声が耳に響いた。
まちがいない。
私の第二大臼歯がスエの声の出どころだった。

でも何がどうしたことだろう。
「そんなこと知るかよ!」とスエが怒鳴った。

そうだろう。
こんな事態は、ただ乱暴なだけのスエに理解できるはずがない。
突然奥歯にのりうつられた私にだって理解できない。
私が中学生の頃、スエの親指を奥歯で噛み切ろうとしたことに関係があるのかもしれない。

それはそうと、のりうつったってことは、スエはもうこの世の者じゃないのか。
そう思ったとき、スエは「そうよ、オレは撃たれちまって、とっくの昔にオダブツさ」と静かに言った。

後で知ったことだが、スエは北海道でアウトローのような生活を送っていたが、札幌でもめごとを起こして東京へ逃げたということだった。
おそらく逃亡先がバレて、スエはそのスジの者に消されてしまったのだろう。

「こうしてオレが出てきたのは、探偵のおまえに頼み事があるからよ」
私が探偵業をやっていることは、裏社会で生きてきたスエにはお見通しだったようだ。

「へえ、探偵に頼み事って、あんた金があるのかい。こう見えても俺の調査料は高いぜ」
私は、奥歯を舌で弄びながら優位感を楽しんだ。
「おい、こらてめえ、なめてんじゃねーぞ!てめえが俺の母ちゃんに色目使ってたのは知ってんだからな!」
「何を言っているんだ、色目なんて。ガキの時分の話じゃないか」
私は、ドギマギしながらも平静を装った。

「いいか、頼みってのは、オレの母ちゃんと父ちゃんのことを調べてくれってことさ」
スエは中学三年生になってから、学校へ来ることが少なくなっていた。
中学を卒業することもなく家を出て北海道に渡ったのだった。
以来実家とは、まったく連絡をとっていなかった。
自分の母親と父親が、今どうやって暮らしているのか調べてほしいというのだ。

それっきりスエは黙ってしまった。
私が舌で奥歯をグラグラさせても、もう怒鳴ることもなかった。
スエも人の子だったのだ。
殺されて仏ゴコロがついたのだろう。
一人っ子だったスエは、年老いた親の身を案じているのだ。


私には、このところ仕事らしい仕事は入っていなかった。
かなり暇だった。
私の仕事を成り立たせている要因のひとつは、好奇心である。
スエに言われて、私は忘れていたトミエさんのことをなつかしく思い出した。
トミエさんに対する興味が、以前にも増して湧いてきたのも事実だった。

気晴らしに生まれ故郷へ帰ってみるか。
私は、千住の雑居ビルにある事務所を出て、駐車場に向かった。
飲食店街の埃っぽい駐車場の奥に、私の愛車であるオールズモビルのクーペを置いてある。

私はいつも、この車の運転席でハードボイルドな気分を味わうのである。
首都高から川口ジャンクションを経て東北自動車道へ、オールズモビルを走らせた。

生まれ故郷の村の通りを、私の愛車は一気に駆け抜けた。
三十年前と変わらない寂れた佇まい。

村の人の話だと、スエの両親は、私やスエが村を出てしばらくしてから、この村を離れていた。
この村のずっと北にある半島の突端で、トンネル工事が始まって、全国から工事関係者が小さな町に押し寄せたのである。

トミエさんは、これをチャンスと思ったのだろう。
夫のタカを説き伏せて、タカとともにトンネル工事の町でスナックを開いたのだった。

美人ママのいる店として、たちまちトミエさんのスナックは評判になった。
現場作業員や工事の監督や資材会社の営業マンでトミエさんの店は繁盛した。
タカも、金回りが良くなったので喜んでいたらしい。

しかし、そんな日々も長くは続かなかった。
トミエさんは、常連客の若い男と恋仲になったのだ。
その男は、大学の工学部を出た掘削機械のエンジニアだった。

スエが都会の雑踏に憧れたように、トミエさんは都会的なシャレた物言いに惹かれたのだ。
タカにはまったく感じられないインテリ風なムード。

タカもまたスエ同様、自分の衝動を抑えられない破滅的な男だった。
タカは、トミエさんとエンジニアの逢引の現場に乗り込んで刃物を振り回した。
トンネル景気に湧いている北端の町に起こった凄惨な事件。
血だらけの若者がアパートの階段を転がり落ちる。
トミエさんは寝間着のまま、二階の窓からツツジの植え込みに飛び降り、海の方へ逃げた。

初冬の黒い雪雲が、強風に飛ばされて、海峡の空を西から東に脱兎のごとく走っていく。
時おり射し込む陽の光が、黒い岩でゴツゴツした断崖に濃い影を作っていた。
岬に白い雪片が舞う頃の、この地方特有の暗い景色である。

荒れた海に突き出た丘。
その丘を襲う強風が、トミエさんの寝間着を剥ぎ取ろうとしている。
鈍色の世界で、白い肌をあらわにしたトミエさんに血だらけの出刃包丁を構えたタカが迫り寄る。

目撃者の話では、「トミエーッ」と叫んだタカがトミエさんに体当たりし、二人は断崖から姿を消したということだった。
一瞬の出来事だったという。

海流は、大蛇のように海峡の中をウネリながら、日本海から太平洋に向かって流れている。
ここから海へ飛び込んだ者の遺体は、上がったことがなかった。

こうしてスエの両親の物語は北端の地で果てたのである。
それが、私なりの調査の結果だった。
私には、その事件の中心にいたトミエさんの姿が目に見えるようだった。


私は、岬の断崖に立って、スエの反応を待った。
だがスエは、私が東京を出たときから黙ったままだった。

私が舌で奥歯を強く揺り動かしても無言だった。
スエは両親の末路の地を見届けて成仏してしまったのだろうか。
「な、どうなんだ、スエよ」
私は、断崖のはるか下の岩を喰む白波を見下ろしながら、そうつぶやいた。

私が舌で軽く奥歯を押したとき、それはポロリと抜けて、私の口の中に横たわった。
口の中にポッカリと広がった空虚感。
抜け落ちた歯は、抜け落ちたことで存在感を顕にしていた。

歯槽の溶解がかなり進んでいたのだろう。
歯が抜け落ちたとき、痛みはなかった。

私は奥歯を口の中から吐き出して手のひらに乗せた。
しっかりした大きな第二大臼歯だった。
失うにはもったいないほどの頑丈できれいな歯だった。

私はその奥歯を海峡の海に放り投げた。
白い歯は、すぐに見えなくなった。

「トミエさんよ、タカよ、スエよ、成仏してくれよ」
私は心の底から、そう祈った。

祈りながらしょんぼりと佇んでいたとき、昔読んだチャンドラーの小説の題名が、私の脳裏をよぎった。
「さらば愛しき女(ひと)よ」

「けっ、マーロウ気取りかよ」
空耳か風の音か、スエの声が聞こえたような気がした。


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