雑談散歩

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内田百閒の短篇小説「ゆうべの雲」の私の読み方

    キツネのイラスト(ブログ運営者制作)


都会には、人に化けるタヌキやキツネがいる。
主人公の日常が、お伽噺的な視点から描かれている。
私は「ゆうべの雲」を、そういう風に読んだ。

「ゆうべの雲」とは夕方の雲のこと。
夕方の雲は千変万化。
見る見るうちに形を変えて、違う姿に化ける。
この小説のキーワードは「化ける」である。

内田百閒は、「異界」を描く作家だと形容されることが多い。
「ゆうべの雲」の世界は「異界」だろうか。
「異界」にしては、化ける者たちが日常に溶け込んでいる。
お互いにじゃれあっている風でもある。
そのじゃれあいが、私には、ごくありふれた黄昏のひとコマのように見える。

赤い大きな月が、顔をのぞかせている夕暮れである。
空は一帯に明るいが、足元が暗い。
床屋からの帰り道、「私」は、上を見るとほっとした気持ちになる。

月を包んだ黒い切れ雲が、右へ動いていく。
こういう晩は、何かが出そうで気分が良くない。

さっき家で、うたた寝をしたとき、玄関を開けてあがってきたのは、青地に化けた豊次郎だった。
おそらく、青地も豊次郎もタヌキに違いない。
小説には、タヌキとかキツネとかいう言葉は出てこないが、どうもこのふたりはタヌキっぽい。

豊次郎も青地も、もとから知っている若い者で、二人の間柄ではお互いに化けたりするなぞと云う関聯(かんれん)もなさそうに思う。私をおどかすつもりでした事なら承知できない。

豊次郎と青地は、そんなに親しい間柄のタヌキではないのだろう。
そんな二人が、お互いに化けっこをするのは、「私」には気分が悪い。

「私」は帰り道を間違えたが、 なんとか自宅までたどり着く。
すると、暗い玄関にかすかな人いきれを感じる。
訪問者は知り合いの甘木という男と、その連れの大きな女。

おそらく甘木と女はキツネであろう。
キツネの夫婦。
これは私の推察で、作者はそんなことを書いてはいない。
ただ、甘木が「私」に女を紹介するときに、「これは三本目の家内です」と言う。
「三本目」ってのはキツネのしっぽのことだな、と私は秘かに思った。

女は、ときどき手の甲で顔をこする。
お伽噺に出てくるキツネのポーズだから、女はきっとキツネに違いないと私は確信した。

「ねえ先生、私、子供の遊びが大好きですの」
「子供の遊びって」
「無邪気な事が大好きですのよ」
「ははあ」
「大藪(おおやぶ)、小藪(こやぶ)って、御存知じ」
「知りませんな」
「大藪、小藪」と少し節をつけて云って、手の甲で額と目の所をこすった。
「ほほほ、お解りになりまして」
「いいえ」
「駄目ね、先生は」
女と「私」の会話は、自分のペースへ引き込もうとしているキツネと、それに気がついた「私」がだんだん不機嫌になっている様子を表しているように思える。
今日はじゃれ合う気分じゃないんだよ、とでもいうような。

「大藪、小藪」とは「顔遊び」のわらべ唄のこと。
愛媛県の周桑郡丹原町(現・西条市)には、以下のようなわらべ唄が残っている。
大やぶ小やぶ
光り窓に 蜂の巣
碁石に ぼた餅に
きいくらげ きいくらげ
この歌詞は、顔の各部位を表している。
このわらべ唄を歌いながら、子ども同士で、あるいは親が子ども(赤ん坊)の顔を優しく触って、遊んだり、しつけを行ったりするのだという。

「ゆうべの雲」では、女が「私」に顔の各部位を以下のように説明している。
大藪:頭髪
小藪:眉毛
ひっから窓:目
蜂の巣:鼻
小川に小石:歯
木くらげ:耳
こんにゃく:舌

キツネたちは、「先生(私)」の顔で遊んだ後、おいとまをする。
帰り際に甘木が「もうお帰りになるでしょう」と言ったのに対して、「私」は「何ですって」と聞き返したりしている。

このへんがあやしい。
甘木は、家の者が帰ってくるぞと「私」に忠告しているのだ。

実はこの「私」も、「私」に化けたタヌキなのでは、と私は思い始めた。
そう思い始めたら「明るい空に、けだものの尻尾の形をした流れ雲が浮いている」という文章が続いている。
ほら、やっぱり。

人間の家で、キツネとタヌキが、お客さんごっこのままごと遊びをしているのである。

「一寸(ちょっと)そこ迄まいりましたので、お邪魔しました」
「よく入らっしゃいました」
「これは私の家内で御座います。お近づき願おうと思って連れてまいりました」
「それはようこそ、お初めて」と云って私が会釈をした。

上記は、玄関で待ち構えていた甘木と「私」の挨拶のシーンであるが、どことなくぎこちない。
子どものままごと遊びのような挨拶という印象が残る。
この後に、女と「私」の「大藪、小藪」が続くのである。

さて、ままごとを終えて、おいとまをしたキツネの夫婦を追いかけるように「私」は外へ出る。
「私」が、空の雲を眺めたり、下駄の音を聞いたりしていると、「ちょいと、そこにいるのはだれ」という家の者の声がする。

私の読みからいくと、これがこの話のオチ。
「私」がタヌキでなかったら、オチにはならない。


色文字部分:小説「ゆうべの雲」からの抜粋

参考文献
NPO法人 日本子守唄協会サイト 「大やぶ子やぶ(ママ)」
ちくま文庫 内田百閒集成4 「サラサーテの盤」に収録の「ゆうべの雲」

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