内田百閒の短篇小説「梟林記」を読んだ感想
梟。 |
「梟林記」は、「梟(ふくろう)」の音読みが「キョウ」だから、「キョウリンキ」と読めば良いのだろうか。
短い小説なので、あっという間に読み終えたが、梟はどこにも出てこない。
登場する鳥は、鷲や雀だけで、梟の林も出てこない。
梟を探して再読しかけた時、変なことに気がついた。
小説「梟林記」は、「去年の秋九月十二日の事を覚えている」という書き出しで始まる。
「キョネンノアキ」と「キョウリンキ」。
小説の題名と書き出しの言葉で韻を踏んでいるのか。
まさかね。
いや、俳味があると言われている内田百閒ならありかも。
それはともかく、文庫版の冒頭の九行の書き出しが、小説「梟林記」を覆っているイメージであると感じた。
その九行の最後は以下のように閉じられている。
隣の屋根の上に、細長い灰色の雲が低く流れて、北から南へ棟を越えていた。さっき坂の上で見た月がそのなかに隠れていた。雲の幅は狭いのに、月はいつまで経ってもその陰から出て来なかった。雲の形は蛇の様だった。「九月十二日の事」として鮮明に記憶するほど、この印象は、主人公である「私」にとってあまりにも鮮烈だったのだ。
人家の屋根には、その家を護っているという独特の雰囲気がある。
棟に鬼瓦(蓮や福の神や家紋)を飾って、厄除けや魔除けを祈願するのも、家と家族を護るためである。
その屋根を、月を飲み込んだ細長い蛇が這って行ったという幻想を見たのである。
その雲の形相を、「私」はよほど不吉に感じたのであろう。
そして、一年と二か月過ぎた今年の十一月十日の夕方。
その家で殺人事件が起きた。
「私」は、隣家の殺人事件の話を妻から知らされたとき、すぐに「九月十二日の夜の細長い雲」を思い出したのだった。
「私」は、十一月十日の昼の様子を、この日の夕食後に家の自室で思い出している。
海岸で大きな鳥を見たことを思い出し、あれは鷲だろうと机の前でぼんやり考えている。
磯近くの枯草の中から雀の群れが飛び立ったのを思い出し、鷲から逃げていた小鳥たちのことを、ぼんやりと考えている。
海岸の台の上に寝転んだことを思い出し、台の上で泣いていたのではなかったかと、電灯の下に座って考えている。
だが、何のために泣くのだということを考え当てることが出来ないでいる。
その後に、以下の文が続いている。
ただ何となく、九月十二日の夜、隣の棟にかかった細長い雲の中から、何時迄まっても月が出て来なかった時と同じ様な気持ちがした丈であった。
「同じ様な気持ち」とは、不吉な思いに駆られたということだろう。
この時点で、「私」はまだ殺人事件のことを知らない。
鷲や雀を見たことを思い出し、海岸の台の上では、水雷艇の汽笛の音や採石場の爆音や軍楽隊の奏楽の音を聞いたことを思い出す。
目で見、耳で聞いたことを思い出しているうちに、「九月十二日の記憶」が呼び覚まされたのだ。
この時点で、「私」はまだ殺人事件のことを知らない。
鷲や雀を見たことを思い出し、海岸の台の上では、水雷艇の汽笛の音や採石場の爆音や軍楽隊の奏楽の音を聞いたことを思い出す。
目で見、耳で聞いたことを思い出しているうちに、「九月十二日の記憶」が呼び覚まされたのだ。
逆に言うと、今日の意識が九月十二日に遡っている。
それから「私」は、廃艦になった軍艦のことをぼんやり考えながら、いっとき寝入ってしまう。
廃艦には、死のイメージが隠れているのであろう。
ということは、「私」には、何か恐ろしいことが起きそうだという「予感」があったということだろうか。
予感がありながらも、殺人事件のあった日の夕は、「私」は「ぼんやり」していることが多かった。
数えてみると、「私」が殺人事件のことを知るまでに5回「ぼんやり」という単語が、短い文中に書かれている。
「ぼんやり」していたのは家の中の自室でのことで、昼に散歩しているときは、見ることや聞くことに注意を払っていたようである。
殺人事件が発生したとされている時間帯に、「私」は夕食を終えて、「ぼんやり」していたのである。
隣家で血なまぐさい殺人が進行していたとき、「私」は「ぼんやり」と昼の散歩での見聞を思い出したり、廃艦のことを考えたり、居眠りから覚めて「ぼんやり」したり。
隣の「殺人劇」と「私」の「ぼんやり」との対比は何を表しているのだろう。
海岸の台の上で「九月十二日の記憶」が呼び覚まされ、そのまま夕方まで感覚が明瞭であったなら隣家の異変に気付いていたかもしれない。
「ぼんやり」の多用は、異変に気がつかなかった「私」の言い訳のようにも受け取れる。
転寝から覚めて、煙草を吸いながら、何も考えずにぼんやりしていたときに、妻から隣家の「変事」を知らされ、「私」は微かな戦慄を覚える。
殺人事件が発覚してからは、夕方の「ぼんやり」とは一転して、「私」は夜の通りを歩き回る。
まるで情報収集しているみたいに。
警官の話を聞き、車屋(大正時代の人力車屋のことか:ブログ運営者)で新聞記者たちの話を聞き、ミルクホールで客たちの話を聞き。
車屋から帰るとき、「私」は「だれも知らなかったのですか」と車屋の女将に尋ねている。
それは、殺人が進行している気配に、ご近所さんは誰も気がつかなかったのだろうかという問いかけのようにも受け取れる。
なぜ自分は「ぼんやり」していたのだろうかと、自問しているみたいでもある。
その夜「私」は、次第に宵の出来事を忘れそうになって温かい布団の中でぐっすり眠る。
翌日は穏やかな小春日和だった。
昼過ぎに、小学校から帰った娘が、日当たりのよい縁側で、「毛むくじゃらの球の様なものを」いくつも作っている。
それは何と私が訊くと「これは殺された人の魂よ」と娘が言って、そのなかのひとつを、ふわりと空に投げて見せる。
作者はこの小説の最後を対比で締めている。
不安と平穏。
殺人事件が起きたざわざわした夕暮れと、うららかな小春日和。
去年の九月十二日の夜の不吉な屋根と、日当たりのいい縁側。
蛇の様な雲と、娘の手からふわりと空へあがる毛糸の玉。
この「対比群」のなかに内田百閒は、夜の「怪」をじっと見つめる梟と、人が見る「穏やかな夢」の対比を、隠しているのかもしれない。
色文字部分:小説「梟林記」からの抜粋
参考文献
ちくま文庫 内田百閒集成3 「冥途」に収録の「梟林記」