内田百閒の「雲の脚」を読んだ感想
兎。 |
内田百閒の短篇小説「雲の脚」を読んだ。
「雲脚(雲の脚)」という言葉は、国語辞典には、雲が流れ動く様子を表していると記されている。
また、低く垂れ下がった雨雲という意味もあるという。
だが、内田百閒の小説「雲の脚」の冒頭を読むと、「紫色を帯びた黒雲」に、ほんとうに脚が生えているように思えてくる。
雲の脚の動くのが見えるわけではないが次第にこちらへ被って来る様である。まるで脚の生えた雲が「私」を追いかけて迫ってくるように思える。
天空にそんな不気味な雲があるときは、地上の日常も、いつもとは勝手が違ってくる。
家に帰ると「縁側にはまるで勝手の違った明かりが流れている」し「塀の裏と高く伸びた草の葉には不思議な明かりが残っている」。
脚の生えた雲が、「私」の家に覆いかぶさって夕暮れの陽の光を遮り、不思議な「明かり」を灯している。
そんな暗がりと「明かり」が交錯するなかで、玄関に女が入ってくる。
女は、無遠慮な声で「可笑しいわ、いないのか知ら」と言う。
その女は、以前に取り引きのあった高利貸しの細君であった。
高利貸しの男は、大分前に死んだという話を「私」は聞いていた。
女は、別段用事があって出向いて来た訳ではない。
「もっと早くお伺いしたいと思いながら、」と言っているところをみると、昔の客である「私」のところへ、いつか挨拶に伺わなければと思っていたような素振りである。
女は風呂敷から大きな紙包みを取り出して「私」の方へ差し出し、「どうか召し上がってください、と云った」。
紙包みには、水引が掛かっていた。
「私」は、二度ほど「贈答品」を断ったが、女は「御免遊ばせ」と言って表に出てしまう。
往来の暗い色をしたアスファルトの上に椀を伏せた位のぬれた点点が方方に散らばっていて、そこだけ白く光っている。女が出て行ってから紙包みを開けて見ると、籠の中に生きた白兎が入っていた。
大きな雨粒が落ちたのであろう。出て行った女の足音が、その上にからからと響いて遠ざかった。
兎は、籠が緩んで口を開いたとたんに、「私」の手許をすり抜けて、縁側に出て身ぶるいをしている。
赤い眼で「私」を見ている。
西空の雲が切れたのか、庭塀の裏に帯ぐらいの幅の日なたが出来た。
だが、庭の土や石は、さっきよりも暗くなっている。
塀の裏に日なたが出来て一層暗くなった。
「私」は、そんな庭の様子を見て「何だか少しちぐはぐの気持ちがする。」と感じる。
そして短編小説は、以下のユーモラスな文章で終わっている。
兎が縁側で起ち上る様な恰好をした。庭の暗い所と明るい所とを背中に受けて、おや変な真似をしやがると思った。灰皿を取って投げつけたら、その儘の姿勢で一尺ばかり飛び上がった。短い小説を一気に読み終えた時、面白い空想が頭をよぎった。
女は、狐ではあるまいか。
狐はウサギを食べる。
アスファルトの上で白く光っている点点は、狐の提灯か。
とすれば、ウサギは何者か。
手許をすり抜けたが、庭の奥へ逃げもせずに縁側で立ち上がって、赤い眼で「私」を見ているウサギは、女が「鬼」と呼んでいる高利貸しの同業者ではないだろうか。
「私」を知っているようなウサギのしぐさが、それを物語っている。
脚の生えた黒雲が家を覆い、周囲の明かりの具合を変にしたとき、高利貸しの細君に化けた狐が訪ねて来て、妖力でウサギに変えた高利貸しの同業者を食べてくれと置いていった。
日常の隙間に忍び込んだ非日常。
ちぐはぐな日常。
雲の脚と、突然の女と、変な真似をするウサギ。
不確かで、どこかズレた感じ。
その揃っていない、ちぐはぐさの妙が、この小説の面白さであるようだ。
ちぐはぐさの妙とは、ちぐはぐなものを巧みに揃える文章術と言うべきか。
小説「雲の脚」を、当ブログ運営者は、そんな風に読んだ。
色文字部分:小説「雲の脚」からの抜粋
参考文献
ちくま文庫 内田百閒集成4 「サラサーテの盤」に収録の「雲の脚」