雑談散歩

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内田百閒の超短篇小説「葉蘭」を読んだ感想

葉蘭。

内田百閒の短篇小説「葉蘭」を読んで、覚えたことがふたつある。

ひとつ目は、小説の題名になっている「葉蘭」のこと。
当ブログ運営者は「ようらん」と読んだが、これは間違い。
正しくは「はらん」と読むとのこと。

「葉蘭」と、蘭の字があてがわれているが、蘭の仲間ではないらしい。
ウィキペディアによると、スズラン亜科 キジカクシ科(クサスギカズラ科) ハラン属の常緑多年草であるとのこと。
巨大な葉を地表に立て、茎は地下茎状に、地下を横に這う。
古名は「馬蘭(ばらん)」。

葉蘭の葉には殺菌作用があり、料理の仕切りなどに添えられる事があるという。
ああ、あれのことか。
てっきりあれは笹の葉だと思っていたが、葉蘭だったとは。
寿司や弁当の仕切りなどに使われている緑色のプラスチック製のあれも、葉蘭を模したものであるらしい。
こちらの呼び名は「バラン」。

ふたつ目は、小説に出てくる「養狐場(ようこじょう)」のこと。
現代ではほとんど聞かない言葉なので、てっきり内田百閒の創作かなと思ったが、過去に実在した施設であった。

大正の末から昭和の初期にかけて、おもに北海道や樺太で、毛皮の需要に応ずるために狐を飼育する「養狐場」が運営されていたようである。
当時の「貴婦人」の高級襟巻用に銀黒狐が何百頭も飼われていたという。
輸出も盛んだったが、太平洋戦争が始まってからは衰退したとのこと。
そういえば、昔の映画で、首に狐の毛皮を巻いた趣味の悪いオバサンを見た事がある。

小説「葉蘭」は、文庫本にして二ページちょっとの超短編小説である。
わずかな行数のなかに、狐を飼うことになった男の話が描かれている。

男は、罠にかかった野生の狐を知人からもらったので、飼ってみることにした。
狐を鉄格子の付いた箱の中に入れて、茶の間の縁の下に置いた。

茶の間から見える狭い庭の隅に、葉蘭の一群がかたまっている。
庭に低い風が通ると、葉蘭の葉が鳴る。
その音を、今までは気にかけなかったが、狐の檻を縁の下に置いてから、男は急に気になりだした。

夕食のとき、障子の外で葉蘭がさわさわと鳴った。

夕食前に庭を見た時は、真暗だった。
月が出るはずだがと、男は夕食の途中で障子を開けて庭の様子を見る。
すると、茶の間の明かりが流れているのに、庭は真暗で、その暗闇の中に葉蘭の葉が薄い光を放っている。
その様子は、葉を一枚一枚数えることができそうなほどであった。

この後、以下の文章で、小説が終わっている。
 家の者が夜になるとこわくて困るから、あんな物を飼うのは止めてくれと云いだした。何がこわいかと聞いてもそれは解らない様であった。私もつまらない事に気を遣(つか)ったり、一寸した物音に驚いたりするが、まだ馴れないからであろうと考えている。また明るくなったら縁の下の前にしゃがんで、もっと向こうの気持ちも解る様になりたいと思う。
この最後の文章が、妙に気になる。

「また明るくなったら」とは、夜が明けたらということだろうか。
それとも、暗闇の中で、庭の片隅の葉蘭が、また光を放って明るくなったらということだろうか。

「もっと向こうの気持ちも」「向こう」とは、家の者を指しているのか、縁の下の狐を指しているのか。
狐を飼っている男から見れば、狐をこわがっている家の者は、意見が違う「向こう」の者と言えないこともない。
だから、太陽が出て明るくなったら、縁の下の前にしゃがんで狐を観察し、狐をこわがる家族の気持ちを理解してやろうということなのか。
これなら、一家の主としての優しい配慮が感じられる。

それとも、また暗闇の中で葉蘭が明るくなったら、それはきっと狐のせいに違いないから、そんなことをする狐の気持ちを理解しようと、檻の前で考えてみようということなのか。
これなら、そんな狐に馴れ親しもうという、男の異様な好奇心が感じられる。

養狐場では、毛皮をとるためにたくさんの狐が殺されたことだろう。
野生の狐も、毛皮目的で捕獲され、殺される。
たまたま殺されずに、男に飼われることになった狐の気持ちを、解るようになりたいと思う男。

はたして、狐が異様なのか男が異様なのか。
一面の暗闇のなかで、葉蘭の葉が薄い光を放ったのは、茶の間の明かりが反射したせいなのか、縁の下の狐の仕業なのか。

この不確かさが、短い物語の奥深さや奇妙さを強調しているように感じたしだいである。


色文字部分:小説「葉蘭」からの抜粋
参考文献
ちくま文庫 内田百閒集成4 「サラサーテの盤」に収録の「葉蘭」

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