雑談散歩

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「別れの朝」の馴染めない慣用句「ちぎれるほど手を振る」

YouTube「別れの朝」より。

混んできたので、三連休は仕事になった。
仕事のBGMに、YouTubeの歌謡曲をよく聴く。
最近は、ペドロ&カプリシャスの代表曲である「別れの朝」がお気に入りだ。

若い頃に好んで耳にした歌は、聴いていると若返るようで、元気が出て作業もはかどる。
「別れの朝」は、二代目ボーカルの高橋まり子もいいが、やっぱり初代ボーカルの前野曜子の方が好みだ。
囁くような説くような歌いぶりがいい。

何度も聴いていたら、心地よい曲に乗って耳に入ってくる歌詞に、違和感を覚えた。
若い頃は、まったく気にならなかったフレーズなのだが。

それは「ちぎれるほど手をふる」という慣用句である。
これが変な感じなのだ。

やがて汽車は出てゆき
一人残る私は
ちぎれるほど手をふる
あなたの目を見ていた

この歌詞だと、女性は一人プラットホームに残り、汽車に乗って去って行く「あなた(男性 )」を見ていることになる。
そして男性は、おそらく窓から身を乗り出して「ちぎれるほど手を」振っている。
「ちぎれるほど手をふる」ためには、男性は、半身近く列車の窓から身を乗り出さなくてはならない。

これは、かなり危険な行為である。

さらに、この慣用句自体も危険である。
「ちぎれる」とは、「もぎとったように切れる」とか「ねじきれる」という意味。
とすれば、「ちぎれるほど手をふる」とは、手首を境にして腕から手が断裂寸前になるほど手を振っているということなのだ。

もしかしたら、ちぎれかけて、手首から出血しているかもしれない。
この慣用句が比喩にしても、実際に激しく振っている様子の比喩なのだから、手首の怪我も範疇に入っていることだろう。

歳をとったせいか、こんな過激で過剰な慣用句には違和感を覚えてしまう。
まだ「歯が浮く」とか「膝が笑う」とか「頭にきた」ぐらいなら辛抱できるのだが。

「別れの朝」の作詞者は、なかにし礼氏。
感傷的な男女の別れの詩に仕上げているようで、その裏には、氏のブラックユーモアが潜んでいるのではと当ブログ管理人は感じた。

「ちぎれるほど手をふる」ような過激で過剰だった男に、「私(女性)」は恐れをなして、別れることにしたのだ。

こんな男と、恋は続けられない。

それに、大人の男女の恋の破綻のシーンで、「ちぎれるほど手をふる」のは、どこか子どもっぽい。
まるで、転校していくクラスメートを見送る小学生のようである。
男の極端な子どもっぽさも、女が別れることにした理由のひとつであろう。

きっと「ちぎれるほど手をふる」男の目は、血走っていて鬼気迫るものがあったに違いない。

恐ろしさにふるえながら「あなたの目を見ていた」女性は、もう二度と会うことも無いのだと、ほっと安堵した。

極端で、過激で過剰だった男からの解放。

「別れの朝」は、ようやく恐怖から逃れた女性にとって、希望に満ちた再出発の朝となったのだ。

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