2015/04/02

ネガティブをポジティブへ反転させる芭蕉のトリック「野ざらしを心に風のしむ身哉」

野ざらしを心に風のしむ身哉
松尾芭蕉

貞享元年(1684年)8月の秋、41歳の松尾芭蕉は江戸・深川を出て、「野ざらし紀行」の旅に出る。
以前このブログで記事にした、「笈の小文」の旅は貞享4年(1687年)であるから、「笈の小文」より3年前の旅立ちになる。

「野ざらし紀行」旅立ちの句が、このページ冒頭の句。

「野ざらし」とは、山野で風雨にさらされて白骨となった頭蓋骨(ずがいこつ)のこと。
旅の門出に不吉な句を詠んだ芭蕉は、かなりネガティブな心境だったように感じられる。
悲壮な決意を暗い陰のように背負って、旅に出ようとしている姿が思い浮かぶ・・・・のだが。

ネガティブ思考 


「野ざらしを」の後、この句を順当に「心に風の」と区切ると。
(1)心の中は、寂しい秋の風が吹き過ぎていくように空虚だ、というイメージが思い浮かぶ。

また、「風のしむ身哉」と区切ると。
(2)寒々とした虚しい風が身にしみる。

あるいは、「心に風のしむ身哉」と続けて区切ると。
(3)秋の寒々とした風が心にしみる身の上だなあ。

(1)、(2)、(3)は、どれをとっても、寒々とした虚しさや寂しさが付きまとうネガティブなイメージに感じられる。

まるで世捨て人のような心境。
その心境を飾るのが不吉な「野ざらし」。

旅を前にして、芭蕉は否定的で消極的な気分に襲われているかのようである・・・。

例えは悪いが、売れない演歌歌手が、「いよいよ俺も都落ちして、ドサまわりの身の上か。」と嘆いているような。
「表舞台から身を引いた俺は、野ざらし同然さ。」みたいな悲嘆。

はたして、そうであろうか。

ポジティブ思考 


「野ざらしを」の「を」は動作の対象を示す格助詞。
「心」は、意志や望みの意味合いをも持っている。

この句を、「野ざらしを心に」と区切ると、以下のようなイメージになるのではあるまいか。
(4)この旅で行き倒れて「野ざらし」となるかもしれないが、むしろ、それを覚悟のうえで・・・。

松尾芭蕉は、「蕉風」と呼ばれる芸術性(文学性)の高い「作風(句風)」を確立した俳諧師であると言われている。

そういう事を念頭に置きつつ、「心に風のしむ」と区切ると。
(5)私の意志には自身の作風が染み込んでいるのだ。
私の決意には自身の作風しか無いのだ、というイメージも成り立ちはしないだろうか。

とすれば、「風のしむ身哉」とは。
(6)自分(芭蕉)が確立しつつある作風の染み込んだこの身であるなあ、というようなイメージにもとれる。

(4)、(5)、(6)をまとめると。
行き倒れて野ざらしとなるか、芭蕉として生きるか、旅を始める私の決意は私自身の作風そのもので、その作風が染み込んだ身で私は旅立つのだ(野ざらしになんか、決してなるものか)、というもうひとつのイメージが浮かび上がりはしないだろうか。

旅の途上、野ざらしとなって死に果ててしまうかもしれないなあ、という将来に対する悲観を「偽装」しつつ。
この句は、困難な状況に対して、ポジティブな志をもって挑もうとしている自身の姿を、密かに詠ったものなのだ。

芭蕉のトリック 


「野ざらしを心に風のしむ身哉」
私は、この句にも芭蕉のトリックを感じてしまうのだ。
一見マイナス思考、どんでん返して実はプラス思考。

句の区切り方で、ネガティブをポジティブへ反転させてしまう芭蕉のトリック。
巧みな言葉の選択や配置。

悲嘆に暮れていた暗い場面が、明るい希望の場面へと暗転する。
芭蕉は、そういう劇の仕掛け人として、自作自演している。

旅立ちの句はいつもポジティブ 


そして、この句は、ポジティブなあの句を彷彿(ほうふつ)とさせる。
そう、3年後の「笈の小文」の芭蕉旅立ちの句
あの名台詞。

旅人と我が名呼ばれん初時雨

「野ざらし」「旅人」に、
「心に風」「我が名」に、
「しむ身」「初時雨」に、台詞的に対応しているように思われる。

「笈の小文」の劇は、すでに、「野ざらし紀行」出発の時に、意気揚々と幕が上がっていたのかもしれない。

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