2015/08/29

横光利一「頭ならびに腹」の思い出

本棚から横光利一の本を取り出して、久しぶりに「頭ならびに腹」を読み返してみた。
すごく短い短編小説なので15分ぐらいで読み終えることができた。

「頭ならびに腹」を読んで思い出したことがあった。
私の高校時代、「現代国語」の美人教師が、戦前の日本文学の一流派である「新感覚派」についての授業を行ったことがあった。
彼女はその例として、横光利一の「頭ならびに腹」という奇妙な題名の短編小説の冒頭を、突然読み上げたのだった。

そう、あの有名な書き出しである。

「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」
(横光利一著「頭ならびに腹」より引用)
この一文を、独特の抑揚で勢いよく朗読して彼女は溜息をついた。
「こんな文章が書けたら気持ちいいでしょうね・・・・・うらやましいわ・・・・。」
彼女は、誰にとも無く言い放った。
教室は、静まりかえった。

最前列の席に座っていた私は、彼女の上気した顔を見ながら、同時に、特別急行列車が沿線の小さな駅を小石のように黙殺して猛スピードで走り去る映像をも見ていた。

丸顔の美人教師は、かなりの文学少女だったという噂話をちょくちょく耳にした。
私も、こういう人は小説の一本でも書くのだろうなぁと思っていたのだが。
彼女は、結婚されて、出産を機に退職。
その後、彼女が小説を発表したという噂は聞かなかった。
後任の男性教師は、眉の濃い大男で、彼は三島由紀夫氏の「信奉者」だった。

「頭ならびに腹」では、鉢巻頭の横着そうな小僧だけが生き生きとした姿で描かれている。
列車の窓枠を両手で叩きながら、大声で「都々逸」のようなものを唄い続けている彼の顔が、目に浮かぶようである。

この短編小説に登場する他の乗客は、没個性の一塊の群集としてある。
強いて言えば、「肥大なひとりの紳士(「頭ならびに腹」より引用)」がちょっと目立つキャラで描かれている程度。

線路の故障で立ち往生してしまった列車の乗客は、前の駅にもどって迂回線に乗り換えるか、このまま線路の回復を待つかの判断を迫られる。
どちらが早く目的地に到着できるかは、電線も普通であるから、一切が不明である。

そのとき、太った腹の「肥大なひとりの紳士」が迂回線を利用することを選んだ。
迂回線へもどる列車が到着すると、群衆の頭は、太った腹の後に続いて、その新しい列車の中へ殺到した。

迂回線へ向かう列車は去り、空虚になったプラットホーム。
ひとり特別急行列車の中に取り残された鉢巻小僧。
でも彼は、飄々として「都々逸」を唄い続ける。

立派な腹の紳士につられて行った群衆の頭と、マイペースな鉢巻頭。
読者は、この鉢巻頭の小僧に愛着を覚えるに違いない。

しばらくして駅員が故障線路の開通を告げる。
列車のなかに乗客の頭は、ただひとつ、小僧の鉢巻頭のみ。

特別急行列車は目的地へ向つて空虚のまま全速力で馳け出した。
鉢巻子僧は、意気揚々と窓枠を叩きながら、ひとり「白と黒との眼玉を振り子のやうに振りながら(「頭ならびに腹」より引用)」、「都々逸」を唄い続けている。

私はこの短い話を読み終えて、また「現国」の女性教師のことを思い出した。
彼女もまた特別急行列車が過ぎ去るように、教室から姿を消したのだった。
周囲の人々の顔色には少しも頓着せぬ熱心さが大胆不敵(「頭ならびに腹」より引用)な鉢巻小僧に愛着を感じながら。

私があの授業で国語教師から感じたのは、変わり者としての「鉢巻頭小僧」に対する愛着であったかも知れない。
カッコいい文章と、その文章が生み出した独特のキャラクター。
それに対する愛着をあの先生は感じていたのだろう。
あらためて「頭ならびに腹」を読んでそう思った次第。

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