2015/10/30

芭蕉と柳「田一枚植て立去る柳かな」

田植えをしているのは、もちろん早乙女である。
この句をはじめて読んだとき、私はそう感じた。
そして立ち去ったのも早乙女なのだ。

この句の「柳」には2重のイメージがあると思った。
ひとつは女性である早乙女。
もうひとつは、芭蕉がその木陰で憩った畔道の柳の木。

芭蕉の句に「梅柳さぞ若衆かな女かな」というのがある。
この句から察するに、芭蕉にとって「柳」は女性のイメージなのである。
それも、ちょっと艶かしい女性のイメージ。

田一枚植て立去る柳かな
松尾芭蕉

芭蕉は柳の木陰で休憩しながら、独りで田植えをしている早乙女を眺めていた。
なぜ早乙女が独りなのか。
それは、芭蕉の視線を感じて立ち去ったから、独りなのだ。
複数の女性なら、好奇なオヤジ視線を感じても立ち去りはしないだろう。

容姿の良い早乙女が、たまたま独りで田植えをしていたという情景。
男が田植え女を眺めているということは、そのお尻を眺めているということと彼女は思ったかもしれない。
早乙女は、芭蕉に見つめられるのが嫌で、田んぼ一枚植え終わったのを区切りに、その場を立ち去ってしまった。
その早乙女を柳と置き換えると、しっとりとしたシュールな世界が広がる。
目の前の風景が、寓話的な世界に置き換わる。
芭蕉は、そんな世界を楽しんでいたのかもしれない。

この句の前文に『又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。此所の郡守戸部某の、「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ 。』とある。

この前文の、私なりの現代語訳は以下の通り。
『また、(西行法師が詠んだ)清水流るるの柳の木は、芦野の里にあって、田んぼの畔道に残っている。ここの郡守である戸守某が「この柳をぜひ見せたい」と折にふれて語っているのを聞いていたので、(その柳は)どこにあるのだろうと思っていたのだが、今日こうして柳の下に立ち寄ることができた。』

この前文からすると、芭蕉は、やっと見つけた柳の木の下で、西行を偲びながら休憩していたのだろう。
目の前には、一枚だけ田植えの済んだ田んぼがあった。
あたりに人の気配はない。

畔に見えるのは柳の木だけ。
まるで柳の木が、この田を一枚植えたような。
そんな田んぼと柳の関係を芭蕉は空想した。
あたりは、のんびりとした田園風景。
ひとり残った芭蕉は、風に揺れる稲の苗を眺め、しばらくして柳の木の下を立ち去る。
そんなイメージも思いつく。
だが、無人の田園風景はのどかだが、どこか寂しい。

この句の「解釈」をめぐって、識者による様々な論争が交わされてきたという。
識者はともかく、一般の読者は、この句にどんなイメージを感じようと、それは自由。
やはり私は、この句の風景に早乙女を登場させなければ、面白くないと感じている。

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