2015/11/20

芭蕉の個別の発句を独断的に関連付けてみる試み

「蛙飛び込む水の音」の上五を「古池や」にしようと思ったとき、芭蕉はどんな池をイメージしていたのだろう。

「古池や蛙飛び込む水の音」の句は芭蕉43歳のときの作とされている。
同じ43歳のとき、「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」という気になる句を作っている。
この句の、どこがどういうふうに気になったのかについては、以前記事にした
蛇足だが、この記事(よく見れば・・・)は、今のところ私の芭蕉関連の記事のなかで、もっとも多く読まれている。

さて、私がどんな池を芭蕉がイメージしていたかを考えたとき、頭をよぎったのが「よく見れば」の句であった。
その池はどこにあったのだろうと考えたとき、「ナズナを垣根として利用していた」屋敷の中にあったのではと空想した。
あるいは、「垣根としてナズナを生やした」屋敷の中にある池ではないかと思った。
要するに、あまり立派ではない屋敷のなかの古びた池を連想したのだ。
それが、芭蕉が想定した「古池」ではあるまいか。
このように、ふたつの句を関連付けて考えてみた。

その小さな屋敷の中には、日本庭園のまね事のような、雑な造りのひょうたん池があって、今は荒れ果てて草薮に覆われている。
家も朽ち果てて、廃屋となっていたかもしれない。

そこにある古池は滅びのイメージで満ちている。
そんな滅びの場へ、カエルがジャンプする。
草藪の根元の隙間を飛び回っていたカエルが、最後に池に向かってジャンプした。
あるいは、草の葉に乗っていたカエルが餌の昆虫を捕えようと池にジャンプした。

人間にとって廃墟となった屋敷は、池を中心とした、生物たちのビオトープ(バイオトープ)となっていたのかもしれない。
人間にとって滅びの場は、生物のもっとも棲息しやすい場となっていた。

「蛙飛び込む水の音」はカエルの生活の音である。
見捨てられた「古池」や古屋は、生活者の滅びの兆し。

「古池や蛙飛び込む水の音」の句をこう読むと、自然の生命力と廃れていく人工物との対比が感じられて面白い。

芭蕉43歳の同じ年に、「名月や池をめぐりて夜もすがら」という句を作っている。
この池を、カエルが飛び込んだ「古池」と同一のものとみると、「古池」の滅びのイメージに静寂感が加わる。
無人の屋敷の中にある「古池」。
その池の周囲を巡るように、天空を回っている月。
  1. 「よく見れば薺花咲く垣根かな」
  2. 「古池や蛙飛び込む水の音」
  3. 「名月や池をめぐりて夜もすがら」
この三つの句のつながりを強く感じているのは私だけだろうか。
これらの句に共通しているのは無人なイメージである。
静寂のドラマである。

とすれば、次の場面に登場すべき句は何であろうか。

それは「ものひとつ我が世は軽き瓢(ひさご)哉」の句がもっとも似つかわしい。
自分は旅人であるから垣根も池も屋敷も不要であるという宣言。
軽い瓢ひとつで生きていくのだという宣言の句が、もっとも似つかわしいと思うのだ。

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