2015/11/24

人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)する

「人口に膾炙する」とは、主に文学作品が広く世間に知れ渡り、もてはやされることの意とか。

「人口(じんこう)」とは、うわさ話などをする人の口のこと。
「膾炙(かいしゃ)」とは、膾 (なます:肉を細かくきざんだもの) と炙 (あぶりにく) のこと。
膾 (なます) と炙 (あぶりにく) は、だれの口にも美味しく感じられるということから、「人々の話題に上ってもてはやされ、広く知れ渡る」という意になったという。
出典は、中国の「周朴詩集序」であるとか、孟子の言葉に基ずくとか。

「人口に膾炙する」で、よくある使用例は以下の通り。
『芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」は、もっとも人口に膾炙した句である』。

この句は「俳句の代名詞」と呼ばれるほど広く知れ渡っている。
俳句に興味の無い人でも、この句をそらで口にできる人は多い。
そういう意味では広く大衆に愛されている句であると言える。

その「愛唱句」が、「人口に膾炙する」と表現されると、ちょっと違和感を覚える。
慣れ親しんだものが、実は身近な存在ではなかったという感じに。

それほど「人口に膾炙する」は「人口に膾炙しない」表現なのだ。
現代では、まったく広く知れ渡っていない、馴染みのうすいものである。

ところが、芭蕉の解説記事などでは、時々見かける表現でもある。
芭蕉が江戸時代に活躍した俳諧師であるから、レトロな表現を利用するのか。
あるいは難解な言い方の方が高尚な印象であるからか。
あるいは、人気の句に対する慣用的な言い回しなのか。

「古池や蛙飛び込む水の音」は芭蕉43歳のときの作。
翌年に「笈の小文」の旅を控えた時期である。
芭蕉はこの年に、「よく見れば薺花咲く垣根かな」とか「名月や池をめぐりて夜もすがら」という句を作っている。
これらはみな平易な言葉と、句の「文脈」が日常会話的であり、いかにも親しみやすいという格好になっている。

華やかな雰囲気の和歌的な言葉を避け、意識的に、俗世間で使われている言葉を選んでの句作のように思われる。

こういう句を「人口に膾炙する」と、難解に言い表すことで、高尚な印象を与え、過度に俗世間の手垢にまみれることを防ごうという目的があるからなのだろうか。

江戸時代に俳諧は、伝統的な和歌に比べて低俗なものとして見下されていた歴史がある。
芭蕉は、和歌に代表される貴族文化の「風雅」に対して、庶民文化の「風雅」としての俳諧作りを目指した詩人ではなかったかと私は思っている。

俗な言葉のなかに、伝統的な「詩情」に匹敵するものを見出そうとした江戸時代の詩人。

ここで、もういちど「人口に膾炙する」という言い回しについて考えてみると。
「膾 (なます) と炙 (あぶりにく) は、だれの口にも美味しく感じられる」という感覚は、かならずしも格調高いものではない。
むしろ、詩歌の人気の様子を、食べ物の例えで語るのは、どちらかと言うと俗な言い方になるのではあるまいか。
となると、『芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」は、もっとも人口に膾炙した句である』という使用例は、「難解に言い表すことで、高尚な印象を与え、過度に俗世間の手垢にまみれることを防ごうという目的」とは矛盾することになる。

どうして芭蕉の有名な句に「人口に膾炙する」という「言い回し」を用いるのか。
それが芭蕉の「俗を取り込んだ句」に対する慣例的な言い方なのか。
私には、難解な謎である。

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