反対の反対は賛成か?「荒海や佐渡に横たふ天の河」
子どもの頃、賛成か反対かという意見を求められて、「反対・・・の反対」とふざけて答えた経験をお持ちの方もいらっしゃることでしょう。
ところが「否定の否定」は「反対の反対」ほど単純ではない。
「反対の反対」だって賛成と同じかどうかは明確ではないのだが・・・・・。
それはおいといて、下記は芭蕉の有名な句。
荒海や佐渡に横たふ天の河
松尾芭蕉
「横たふ」とは、水平方向にのびて存在すること。
「荒海」の沖に佐渡島があって、島の上空には「天の河」が横たわっているというイメージ。
私は以前の記事で、「荒海は、佐渡島の上空に横たわっている天の川のようである」というイメージを書いた。
それを、『「荒海」と「天の河」は、まるで、一枚の絵の中に組み込まれた二つのイメージのようである。』としたのだった。
配置としてみれば、「天の河」は天であり、「荒海」は地である。
天と地は対照的であり、対義的な関係とも言える。
さて通常的な視点では、荒海に横たわっているのは佐渡島の方である。
ところが芭蕉は、佐渡島に横たわっている「天の河」と書いた。
この句を「荒海」は、佐渡島の手前に横たわって、こちらとあちらを隔てている「天の河」のようなものだととらえると、通常の視点(海のなかに横たわる島)とは反対(つまり、島の前に横たわる海)になる。
さらに「荒海」と「天の河」とは対義的な関係にあるから、地にあるものをあえて天にあるものと置き換えるのは、上下が逆であり、ある意味で反対である。
海の中に横たわっている島が、反対に海を横たえている。
天にあるはずの「天の河」が反対に地を流れている。
つまり佐渡島を軸として、「荒海」と「天の河」が天地反対になっている風景。
「佐渡」の上空は「荒海」で、その「佐渡」と芭蕉とを隔てているのは「天の河」なのである。
芭蕉が描いているのは、そういう風景とも感じることができる。
実際に海が荒れていれば、空は黒々として星も見えず、島影さえも見えなかったに違いない。
芭蕉は、そんな風景のなかに何かを見出そうとしたのだろう。
海に横たわっている佐渡島は見えないが、その反対(横たわっている海)は見える。
「天の河(天の星)」は雲で覆われて見えないが、その反対(地の海)は見える。
反対の反対は「天の河」であるという私の屁理屈。
佐渡島が軸となって、天と地が回転する。
七夕が近いこの日、目に見えるのは「天の河」と化した「荒海」なのか、「荒海」と化した「天の河」なのか・・・・・・。
大しけの「荒海や佐渡に横たふ天の河」
この句を、こういう風に読んでみると面白い。
反対の反対は、賛成ではない。
それは、まったく違う世界の現出。
<関連記事>
◆松尾芭蕉おもしろ読み
「反対の反対」は、子どもにとっての言葉遊び。
まわりの子ども達が「賛成」を表明するなかで、あえて「反対」を唱える心地よさ。
突然「反対」と言って、皆の気をひき、続けてまた「反対」と否定することで、気をそらす。
「えっ、あいつ反対なのか、なんでだろう?」という周囲の関心や注意が、もう一度「反対」が繰り返されることで失速する。
相手を「なあんだ」と言わせるお子様レトリック。
子どもの面白半分の戯れである。
子どもにとって、ことば遊びは面白半分の戯れ。
「反対の反対」に深い意味はない。
そのふざけ好きな子どもが大きくなってから、「弁証法」という「知識」を週刊誌などを読んで得るようになる。
ヘーゲルという昔のドイツの哲学者が唱えたという「否定の否定」とかいう思考方法に触れたりして、はっと驚く。
『驚き、桃の木、山椒の木。これは、俺がガキの頃しょっちゅう使っていた「反対の反対」じゃないか?』
どうやら、大人になっても言葉遊びがお好きなようで。
そのふざけ好きな子どもが大きくなってから、「弁証法」という「知識」を週刊誌などを読んで得るようになる。
ヘーゲルという昔のドイツの哲学者が唱えたという「否定の否定」とかいう思考方法に触れたりして、はっと驚く。
『驚き、桃の木、山椒の木。これは、俺がガキの頃しょっちゅう使っていた「反対の反対」じゃないか?』
どうやら、大人になっても言葉遊びがお好きなようで。
ところが「否定の否定」は「反対の反対」ほど単純ではない。
「反対の反対」だって賛成と同じかどうかは明確ではないのだが・・・・・。
それはおいといて、下記は芭蕉の有名な句。
荒海や佐渡に横たふ天の河
「横たふ」とは、水平方向にのびて存在すること。
「荒海」の沖に佐渡島があって、島の上空には「天の河」が横たわっているというイメージ。
私は以前の記事で、「荒海は、佐渡島の上空に横たわっている天の川のようである」というイメージを書いた。
それを、『「荒海」と「天の河」は、まるで、一枚の絵の中に組み込まれた二つのイメージのようである。』としたのだった。
配置としてみれば、「天の河」は天であり、「荒海」は地である。
天と地は対照的であり、対義的な関係とも言える。
さて通常的な視点では、荒海に横たわっているのは佐渡島の方である。
ところが芭蕉は、佐渡島に横たわっている「天の河」と書いた。
この句を「荒海」は、佐渡島の手前に横たわって、こちらとあちらを隔てている「天の河」のようなものだととらえると、通常の視点(海のなかに横たわる島)とは反対(つまり、島の前に横たわる海)になる。
さらに「荒海」と「天の河」とは対義的な関係にあるから、地にあるものをあえて天にあるものと置き換えるのは、上下が逆であり、ある意味で反対である。
海の中に横たわっている島が、反対に海を横たえている。
天にあるはずの「天の河」が反対に地を流れている。
つまり佐渡島を軸として、「荒海」と「天の河」が天地反対になっている風景。
「佐渡」の上空は「荒海」で、その「佐渡」と芭蕉とを隔てているのは「天の河」なのである。
芭蕉が描いているのは、そういう風景とも感じることができる。
実際に海が荒れていれば、空は黒々として星も見えず、島影さえも見えなかったに違いない。
芭蕉は、そんな風景のなかに何かを見出そうとしたのだろう。
海に横たわっている佐渡島は見えないが、その反対(横たわっている海)は見える。
「天の河(天の星)」は雲で覆われて見えないが、その反対(地の海)は見える。
反対の反対は「天の河」であるという私の屁理屈。
佐渡島が軸となって、天と地が回転する。
七夕が近いこの日、目に見えるのは「天の河」と化した「荒海」なのか、「荒海」と化した「天の河」なのか・・・・・・。
大しけの「荒海や佐渡に横たふ天の河」
この句を、こういう風に読んでみると面白い。
反対の反対は、賛成ではない。
それは、まったく違う世界の現出。
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◆松尾芭蕉おもしろ読み