2015/11/11

おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉

これも芭蕉の有名な句。
有名すぎて、微妙に間違って覚えている方も多い。

「おもしろうてやがて悲しき鵜飼哉」とか「おもしろうてやがて寂しき鵜飼哉」とか。

私の知人で「おもしろうて屋形悲しき鵜飼舟」と言った人がいた。
なるほど、これはこれで面白い。

また、「楽しいのは一時さ、終わってしまえば、その倍寂しくなる」というような格言的な意味合いでも使われることの多い句である。

しかし芭蕉は、格言や諺には興味が無かっただろう。
現実を、短い言葉で切り取った美の世界にしか興味が無かったのでは、と私は思っている。

おもしろうてやがて悲しき鵜舟(うぶね)
松尾芭蕉

「岐阜の庄、長良川の鵜飼とて、世に事々しう言ひののしる。まことや、その興の人の語り伝ふるに違はず、淺智短才の筆にも言葉にも尽すべきにあらず。こころ知れらん人に見せばやなど言ひて、闇路に帰る、この身の名残惜しさをいかにせむ。」という前書きがある。

この前書きの、私の下手な現代語訳は以下の通り。

「岐阜の里の長良川の鵜飼は、非常に大げさな評判となっている。そういえば確かにその面白さは、人のうわさ通りで、知恵が浅く才能に乏しい私は、文にも言葉にも言い尽くすことができそうにもない。趣向を理解している人に見せたいものだと同行の者に言って暗い夜道を帰る。この心残りな気分をどうしたらいいだろうか。」

まさに、この前書きで掲句の説明がなされていると思われる。
芭蕉は、世間で評判になっている珍しい漁法としての鵜飼を見物しに行ったのだろう。

そして、その漁法を目の当たりに見て、評判通りの面白さであると感じた。
だが自分には、知識もなく能力もないので、この面白さや漁の仕組みをうまく表現することはできそうにない。
知識も能力もない者は、表現するべきではない。

この漁法を理解できる能力の持ち主に鵜飼を見せたいものだと同行の者に言いながら夜道を帰ったのだが、自身でうまく言い表せないことが残念でしょうがない。

そういう気持ちを素直に句にしたのが「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」なのではないかと私は思う。

漁師に縄で操られている何羽もの鵜が、次から次へと水中に潜っては鮎を飲み込み、それを舟の上に吐き出すのだから、芭蕉にとっては珍しく、なおかつ面白いに違いない。
暗い川面で、明々とかがり火に照らされて、その「劇」が演じられているのだ。

その観客である芭蕉は、自身を「こころ知れらん人」とは思っていない。

なぜこんなことをするのかという思いが、しだいに募ってくる。
鵜がせっかく飲み込んだ鮎をまた吐き出させる。
これは、生業としてまともな漁なのか、それともショーなのか。
ショーであるなら、もっと観客にわかるような演出があってしかるべき、などと思ったかどうか・・・?

とにかく芭蕉には、鵜飼の趣向が理解できない。
面白いことは面白いが、同時に「わけわかんねぇーよー」という混乱した状態。

だからそういう鵜飼を理解し表現できないことが心残りで悲しい。
それが「やがて悲しき」の内容ではないかと私はイメージしている。

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