2016/01/27

情報によって居場所を失いがちな想像力も、またいつか復活することだろう

木陰のベンチ

暇だから、ちょっとテレビでも見ようか。
というのが、いつのまにか時間を割いてテレビ番組に見入ったり。

小腹がすいたから、ちょっとお菓子でも食べようか。
というのが、口さみしいからとか美味しいからという理由で間食をくりかえしたり。

たまには夜のネオン街に出かけようか。
というのが、いつのまにか飲み屋に常連として納まったり。

まったく大人は悪習慣をつくる天才である。
その悪習慣が、様々な生活習慣病を発生させている。

テレビを見たりお菓子を食べたり。
居酒屋やスナックに出入りすることが、悪いという訳ではない。
健康や、家族との団らんや、稼ぎの状態を無視して悪習慣に浸るのが悪いのだ。

子どもが遊びの天才であるという意味は、子どもが、無の状態から楽しみを見つけ出す天才であるから。
棒きれ一本に空想を膨らませて、チャンバラ劇のヒーローを演じて遊びまわる。
無から作り出した自作自演の遊び。
そんな子どもは、優れた遊びの創造者であり、天才なのだ。

だが、今の子ども達の多くはゲーム機に夢中。
セットされた機械相手に、想像力を奪われている。
子ども達の想像力はやせ細って、もう誰も物語を夢見ることが無いようだ。

新緑

大人は物語をカネで買う。
子ども達よりも、自由にできるカネをちょっと多く持っているから。
そして、あれこれ大人らしい理由をつけて悪習慣づくりの天才となる。
悪習慣に浸りながら、物語を夢見ているのだ。

でも、それは見せかけの物語。
巷にあふれた情報によって安易に作られたドラマなのだ。

子ども時代に育んできた物語は、セットされた情報システムによって消されてしまう。

大人になって得た知識とはなんなのだろう。
体験した事実とは、なんだったのだろう。

物語の消えた現実を生きてきて、ふとそう思う。
それを解明する想像力が、情報の渦のなかで、息絶え絶えだ。

ところで、大人の悪習慣の話だ。
面白い物語とか、美味しい食べ物とか、酔い気分とかの、見せかけの情報が悪習慣を成り立たせているように思える。
そこから、不幸な生活習慣病が派生したり。
また、ゲーム機に夢中な子ども達も、情報通であることをステータスとして要求されたり。
そうして、原始的(根源的)な想像力が、錯綜する情報に消されてしまいそうなこの頃。

根源的な知恵としての、まともな雑談は消えてしまったのかもしれない。
孤独な老人は、雑談もかわせない。

だが物語は、消えてはまた生まれるものであるとしたら、私たちは新しい物語の登場を待ち焦がれるばかりだ。
そうなれば、まやかしの情報によって居場所を失いがちな想像力も、またいつか復活することだろう。

物語をつくる想像力は、現実の私達の世界をつくるものであるからだ。

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