雑談散歩

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自分の主張を正当化し権威づけるものとして「常識」を唱える

「グローバルスタンダード」という言葉がいっとき流行った。
英語表記はglobal standard」。
ためしに 「global standard」とインターネットで検索をかけると、表示される上位10サイトは日本のものばかり。

「グローバルスタンダード」というのは、どうやら和製英語であるらしい。
そして、その意味は「世界標準」。
日本人にしか通じないと思われる「グローバルスタンダード」という言葉の意味が「世界標準」とは面白い。

広い世界はバラバラ。
価値観もルールもバラバラであるのは、別に世界旅行をしなくてもわかる。
世界のあちこちで起こっている紛争や戦争の報道で、バラバラな部分にふれることができるからだ。
その情報の正確さを確かめる術はないのだが・・・・。

そんなバラバラな世界でも、「全地球的標準」というのはたしかにある。
それは、どこの国の人間も「メシ」を食わなきゃ生きて行けないということ。
おっとこれは生存の必須条件だね。
標準と呼べるものでは無い。

世界共通の基準、ルール、方法が「グローバルスタンダード」であるらしい。
国によって単位などの規格がマチマチで、商取引の「決まり事」がマチマチでは、経済や技術、文化の国際交流が出来ないじゃないか。
と、「グローバルスタンダード」推進派である欧米諸国は訴えているという。

『もはや「グローバルスタンダード」は世界の常識さ。』と言っているかいないかは別にして、話は変わるが、私の知り合いに「常識」を連発するオジさんやオバさんがいる。
物事を否定するにしろ肯定するにしろ、二言目には「常識」が飛び出す。
いや、「常識」しか飛び出さない。

「常識で考えればわかることだろう」とか。
「そんなことは常識でしょ」とか。
「もっと常識をわきまえろよ」とか。

「常識」の一言で、相手が納得すると思い込んでいるのだ。
「常識」を振りかざせば、相手を説き伏せることができる。
「常識」には誰も逆らうことが出来ない。
そう思っているオジさんやオバさんは、かなりいるようだ。

ところで「常識」ってなんだろう。
手元の三省堂の「大辞林」で調べてみると、以下のように記されている。
  1. ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力。
  2. 「共通感覚」に同じ。
(1999年10月1日新装第二版発行「大辞林(株式会社三省堂)」より抜粋。)

だが、その「知識や判断力」が、「広く承認され」ているかどうかは不明である。
「公共のマナー」とか「平等感覚」とか「他人に対する優しさ」とかも「常識」のうちに入るのだろうが、広くは承認されていないことのほうが多い。
「権力者」や「会社の上司」、「地域のリーダー」、「老人」、「若者」、「男」、「女」などなど、いろいろな立場によって「常識」は異なる。

いやそれは違う、万人に共通なのが「常識」なのだと、「常識」を唱える人たちは言うことだろう。
しかし、前述の「大辞林」では、「ある社会で、人々の間に」と述べているに過ぎない。
そういう理解の方が、広く承認されている。

その立場の人々にだけ広く承認され、その立場の人々が当然もっているはずの知識や判断力。
それが「常識」の一面。
とすれば、様々な「常識」が存在していることは否めない。

一定の年齢に達した人が、社会生活を円滑に過ごすために、今までの人生経験から身につけた実際的な知識や判断力。
実際それは、人それぞれ、様々なのである。
社会的に受け入れられる行動であることを確認するための「共通感覚」。
その「共通感覚」であるはずの「常識」が、人様々では、「共通感覚」を欠いていることになる。

だが、「常識」を唱えることで、自身が世間の中でスタンダードな人間であるとアッピールできる。
世間の良識の代表者みたいな気分。
「常識」を唱えることで、精神的に優位な立場に立とうとする。
まさに「常識」という錦の御旗。

とこう書いてくると、「常識」には上記のことも含めて、いろいろな顔があるように思われる。
  1. 状況に即した具体的な内容をともなわない「お題目」として。
  2. 唱える人の主観、独断、偏見として。
  3. 他人を攻撃するための、錦の御旗として。
  4. 自身の優位性を守るための、鎧として。
  5. 自分の意見に従わせるための、口実として。
  6. 「常識」の一言で簡単に済まそうとする思考停止型。
  7. こういうことが、広く知れ渡った「常識」であればいいという願望型。
  8. 「常識」さえ信じていれば間違いはないという信仰型。
  9. 「常識」ばかり気にしている世間体型。
などなど。
こうもいろいろな顔を持っている「常識」はますます「共通感覚」から遠のくばかり。
「常識」を唱えれば唱えるほど、「常識」は崩壊していくのではないだろうか。
そんな「常識」と心中したくなければ、自分の頭で考えることだ。
そうすれば案外、常識破りの発想が湧いて、「常識」から脱却できるかもしれない。

「グローバルスタンダード」の話が、いつのまにか「常識」の話になってしまった。
やはり「常識」は、自分の主張を正当化し権威づけるものとして唱えるのが、世界の「常識」なのか。
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