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2016/07/18

湖や暑さを惜しむ雲の峰

芭蕉は雲の峰に何を思い浮かべたのだろう。
空高くそびえる入道雲(積乱雲)は、暑い夏を代表する風景である。
夏がくるたびに目にしてきた風景には、その人の思い出が幾重にも塗り込められている。

湖や暑さを惜しむ雲の峰
松尾芭蕉

元禄7年の5月に、芭蕉は帰郷のために江戸を発った。
その5月下旬に、近江の膳所(ぜぜ)にある能太夫「游刀(ゆうとう)」の家でこの句を作ったとされている。
平凡な叙景の句のようにも見受けられるが、その平凡さ故に多くの人々の共感を得たのではないだろうか。

夏の盛りである。
夕暮近くには、秋めいた涼しい風が吹きはじめる頃であったのだろう。
昼から夕方まで大空にそびえていた入道雲が夕焼けに赤く染まる。
その雲の峰の奥は、まだ真っ青な青空だ。

湖とは琵琶湖のこと。
夕暮に湖面から吹き寄せる風。
その風に秋の気配を感じる。
季節は夏から秋に向かって移ろいでいる。
そう思いながら、湖面から空に目を移す。
遠くの空に、赤く焼けた入道雲。
遠く離れた距離は、遠く離れた時間を思い起こさせる。

子どもの頃、伊賀上野で見た雲の峰。
江戸深川で見た雲の峰。
京都で見た雲の峰。
「おくのほそ道」の旅の途上で見た雲の峰。

その時々、いろんな思いで眺めた雲の峰が、まるで夏のいっときを惜しんでいるように見える。
暑い夏にまつわる幾年もの思い出を惜しむように、夕暮の雲が姿を変えていく。

ひょっとしたら芭蕉は、琵琶湖に映った夏雲を眺めてこの句を作ったのかもしれない。
しかしそれだと湖面の夏雲は、暑さを惜しむというよりも、暑さから逃れるようなイメージである。
涼を求めて湖面に浮かんでいるような。

やはりこの句は、芭蕉の雄大な空間感覚によって作られた句だ。
水平に広がる琵琶湖と、垂直に上昇する夏雲。
その遙かな景色に、様々な思いが去来したのではないだろうか。
この句の空間感覚は、過ぎ去った日々へと広がっていくように、私は感じている。

芭蕉は、この夏が過ぎた秋に病没している。
体の不調に悩まされながらの帰郷だっただけに、感じるものがあったことだろう。
芭蕉は雲の峰に思いを馳せ、過ぎていく夏の暑さを惜しみながら、自身の過ぎ去った日々を惜しんだのかもしれない。
芭蕉にとって、旅の途中の運命的な句となったように思う。

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