◆芭蕉の旅・劇

私はこれまで、松尾芭蕉の俳句(俳諧)を読んで感じたことを記事にしてきました。
「芭蕉の旅・劇」と題したこのページは、それらの記事へのリンク集です。
記事投稿日時順に下から順に並べてあります。

俳句については素人の私ですが、それは、俳句から受けた感想を記事にするうえでの妨げにはなりません。
俳句の世界に興味を感じることは、日常の周囲の出来事に興味を感じるのと同様、「物の見方」を考えることであると思います。

このリンク集にある記事は、芭蕉の句の「解釈」ではありません。
私が、芭蕉の俳諧によって思い描いたイメージを、ブログ記事として書いたものです。

これは、私が芭蕉の俳諧を読んで、その感じたイメージで作り上げた私なりの「芭蕉物語」です。

■芭蕉俳諧感想

(6)~(42)は「笈の小文」についての記事です。
興味のある方は、リンクをクリックして、記事ページへお進み下さい。

(137)留主の間に荒れたる神の落葉哉
そういう市井の民としての自身を舞台にあげて客観視している句であると私は感じている。

(136)海士の屋は小海老にまじるいとど哉
一方凡兆は、「小海老」や「いとど」で構成された「海士の屋」の空間感覚に興味を持ったのではないだろうか。

(135)病雁の夜寒に落ちて旅寝哉
そうであるから、小屋での「旅寝」という安堵感がポッと明るいのだ。

(134)かげろふの我が肩に立つ紙子哉
観客の前に姿を表した旅人が独白する。

(133)吹き飛ばす石は浅間の野分哉
「更科紀行」の最後尾で異彩を放っている「吹き飛ばす石は浅間の野分哉」がそれを示している。

(132)奈良七重七堂伽藍八重ざくら
花と寺が折り重なって七重にも八重にもなる。

(131)四つ五器のそろはぬ花見心哉
花見の町人達と一緒に、浮かれ騒いで楽しい句を詠みたかった芭蕉。

(130)明日の日をいかが暮らさん花の山
「現実」と「古典」の「二物衝撃」。

(129)花の雲鐘は上野か浅草か
それこそ、俯瞰描写の浮世絵を見るようである。

(128)さびしさや花のあたりのあすならふ
翌檜は翌檜なのだが、花を比べると、桜よりもさびしいねという芭蕉の感想を句に詠んだものと私は思っている。

(127)世を旅に代搔く小田の行き戻り
このようにして「旅は永遠に続く」と、元禄七年すでに芭蕉が歌っている。

(126)夕顔に酔うて顔出す窓の穴
読む者の想像力によって、ミステリアスな「窓の穴」からいくつもの「顔」が飛び出すというのが、この句に仕込んだ芭蕉の仕掛けではあるまいか。

(125)水取りや氷の僧の沓の音
「氷の僧」の存在感が、「水取り」の「行」の幻想性をクローズアップしているような。

(124)物好きや匂はぬ草にとまる蝶
それが芭蕉の「風狂観」であり、「虚に居て実をおこなうべし」ということなのではないだろうか。

(123)賤の子や稲すりかけて月を見る
人間と月が対応しているという、芭蕉の宇宙観の表れなのかもしれない。

(122)花咲て七日鶴見る麓哉
数々の商取引を優位に運んで、商人として成功してきた清風は、連句のバトル的一面に惹かれて俳諧に興味を持ったのではないかと私は推測している。

(121)手鼻かむ音さへ梅の盛り哉
芭蕉は、古典を巧みに日常性のなかに取り入れて、読むものの想像力を刺激する多様な句を作っている。

(120)年の市線香買ひに出でばやな
貞享三年が、芭蕉にとって未来と過去の分かれ目だったのかもしれない。

(119)瓶割るる夜の氷の寝覚め哉
芭蕉が奏でる独特の旋律があるように感じている。

(118)なぜ芭蕉は「山吹」を退けて「古池」を思い浮かべたのか?
未知の場所から聞こえる「水の音」を追って旅を続けたのではあるまいか。

(117)島々や千々に砕きて夏の海
淡々とした味わいと、凝縮されたイメージ。

(116)馬をさへながむる雪の朝哉
そうして、こんな感じで、馬までも詠(なが)むる雪の朝かな。

(115)床に来て鼾に入るやきりぎりす
「滑稽」と「悲哀」の対比を描いて自身の感情の空間を押し広げ、芭蕉はいっときその中へ逃げ込もうとしたのではあるまいか。

(114)酔うて寝ん撫子咲ける石の上
うたた寝から覚めると、夕暮の薄闇の底で薄紅色のカワラナデシコがあちこちで浮き上がるように咲いている。

(113)人声や此道帰る秋の暮
声の主たちは、晩秋の夕暮を背にして、歩いてきた道を帰っていく。

(112)松風や軒をめぐって秋暮れぬ
今まで体験したことのないような深刻な病状に、芭蕉はセンチメンタルな気分に陥っていたのではなかろうか。

(111)白菊の目に立てて見る塵もなし
この句は、園女への挨拶句という趣を借りた芭蕉自身の祈りの句であると、私は想像している。

(110)旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
自身が寝込んで停滞している状態を、今すぐに抜け出して行動を起こしたいという意欲がみなぎっている句であると思う。

(109)月澄むや狐こはがる児の供
芭蕉の「劇」の、「月下送児」の一幕である。

(108)この秋は何で年寄る雲に鳥
「劇」の観客は、鳥とともに雲の彼方へ消えていく年老いた芭蕉の「夢」を、時のたつのも忘れて見続けている。

(107)秋の夜を打ち崩したる咄かな
それは風雅な「秋の夜」のイメージを打ち崩すほどの「咄」だったのだ。

(106)道ほそし相撲取り草の花の露
過去と現在が重なるなかで、幼少の頃の「相撲取り草」の「花の露」が鮮明に思い浮かんだ。

(105)春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏り
もう蜂がもどってくることの無い空っぽの蜂の巣を眺めながら、いろんな思いにとらわれた芭蕉ではなかったろうか。

(104)紫陽花や藪を小庭の別座舗
これは、幻想びいきの私が、この句に抱いた勝手な妄想に過ぎないのだが・・・・。

(103)湖や暑さを惜しむ雲の峰
芭蕉にとって、旅の途中の運命的な句となったように思う。

(102)稲妻や闇の方行く五位の声
闇に隠れて姿の見えないゴイサギの、神秘的な存在感が印象的な句であると思った。

(101)卯の花や暗き柳の及び腰
当時のインテリが好んだ、過去の有名な和歌や漢詩を踏まえることなく、芭蕉が庶民の「直感」で詠んだ句であると言えるのではないだろうか。

(100)烏賊売の声まぎらはし杜宇
このように、風雅と世俗とを「調和」させてイメージを広げているような芭蕉の句は、晩年のものに多いと私は感じている。

(99)皿鉢もほのかに闇の宵涼み
「ほのかに闇の」と描かれた家の中の空気が、そう思わせたのかもしれない。

(98)菊の香や庭には切れたる履の底
そういう生活の感情が、風雅な「菊の香」と、世俗な「履」とを、この句のなかで「調和」させようとしたのではあるまいか。

(97)世俗と風雅の融合「寒菊や粉糠のかかる臼の端」
芭蕉は、俳諧にすることで、その「刹那の衝動」を「文芸」の世界へ押し上げようとしたのではあるまいか。

(96)能なしの眠たし我をぎやうぎやうし
そして、ステキに仰々しいオオヨシキリの鳴き声に聞き入ったことだろう。

(95)花盛り山は日ごろの朝ぼらけ
野辺地の俳諧師たちの「憧憬」にも似た感慨である。

(94)行く雲や犬の駆け尿村時雨
おそらく芭蕉が見上げた空にも、雨雲と青空が同居していたのかもしれない。

(93)なぜ「古池や」なのか、「古池」とは何か?
朽ちていくものに対する美意識のようなもの。そんな意識が芭蕉のなかにあって、それで「古池や」なのではあるまいか。

(92)なぜ芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」という句が面白いのか
空でもない海でもない、川でも山でもない、日常的な極小の世界。

(91)人口に膾炙する
それが芭蕉の「俗を取り込んだ句」に対する慣例的な言い方なのか。

(90)梅が香にのつと日の出る山路哉
芭蕉が「梅が香にのつと日の出る山路哉」と詠めば、「まさにそうなんだ」と頷いた人々がたくさんいたことだろう。

(89)六月や峰に雲置く嵐山
でも、このように芭蕉の句を考えることが、私の芭蕉を読む楽しみなのである。

(88)芭蕉の個別の発句を独断的に関連付けてみる試み
この三つの句のつながりを強く感じているのは私だけだろうか。

(87)荒海や佐渡に横たふ天の河
反対の反対は、賛成ではない。それは、まったく違う世界の現出。

(86)埋火や壁には客の影法師
旅を終えた芭蕉は、草庵に落ち着き、「埋火」の影となって現れた同伴者を客としてもてなし、静かな夜を過ごしたのだろう。

(85)暑き日を海に入れたり最上川
芭蕉は、川という自然に時間感覚をゆだね、それに浸りながら見た風景を、感じるままに句にしたのだと思う。

(84)雲の峰幾つ崩れて月の山
月は、地上にいて観賞するものだった。それが月山では、月を体験したのだ。

(83)あらたふと青葉若葉の日の光
陽の光が、新緑の葉を透かして、地面に濃淡様々な影をつくる。

(82)草の戸も住み替はる代ぞ雛の家
そこに芭蕉がとなえている「不易流行」という俳諧理念の片鱗を見ることが出来る。

(81)おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉
そういう鵜飼を理解し表現できないことが心残りで悲しい。

(80)五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん
「劇の詩人」である芭蕉の、台詞のような句である。

(79)名月や池をめぐりて夜もすがら
そういう静寂な美の世界を芭蕉は句にしようとしたのではあるまいか。

(78)辛崎の松は花より朧にて
松の朧加減を題材にした句を「にて」で止めて、句そのものを朧にしたところが、より面白い。

(77)春なれや名もなき山の薄霞
「名もなき山」とすることで、芭蕉は、「天香久山」に象徴される和歌の世界を、俳諧のセンスで越えようとしたのかもしれない。

(76)海暮れて鴨の声ほのかに白し
ほのかに白い鴨の声は、芭蕉にとって安堵の「しらべ」だったのかもしれない。

(75)明ぼのや白魚しろきこと一寸
その芭蕉が、「草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちに濱のかたに出て」と句の前書きにした不眠の原因は何だったのだろう。

(74)秋風や薮も畠も不破の関
天空の産物である「秋風」をよりどころとした、芭蕉の視点が面白いと感じたしだい。

(73) 蔦植て竹四五本のあらし哉
この簡素な庵のなかでの芭蕉と「閑人」の歓談も目に浮かぶようである。

(72) 馬に寝て残夢月遠し茶の煙」
私も馬方のオヤジと同じ、「杜牧の早行」なんて知る由もない。

(71)田一枚植て立去る柳かな
この句にどんなイメージを感じようと、それは読者の自由。

(70) 春や来し年や行きけん小晦日19歳の芭蕉は、通り過ぎていく旅人を見送る「小晦日」であった。

(69) 山路来て何やらゆかし菫草
そこで、「何やらゆかし」と、多くの人々に予想通りの感情を抱かせ、クローズアップされた「菫草」に人々が詠嘆する。

(68) 道の辺の木槿は馬に喰はれけり
それは、幻から句が生まれ、それがまた幻へと消えていくという、芭蕉に対する私の空想(思い込み)なのかもしれない。

(67) あの雲は稲妻を待たより哉
あの雲は、稲妻を待っている農民たちの田より出でたのだ、と芭蕉は思った。

(66) 色付くや豆腐に落ちて薄紅葉
宗匠となった芭蕉にとって「俺はなんだって句に仕上げることが出来る。」ぐらいの自負があってもおかしくはない。

(65)やがて死ぬけしきは見えず蝉の声
「やがて死ぬ」というドキッとするような直截的な表現には、蝉の風景とともに、自身の風景をも見ているのだという芭蕉の覚悟が含まれているように私は感じている。

(64)ものひとつ我が世は軽き瓢哉
芭蕉は、次の旅の準備として、暮らしぶりを「ものひとつ」にしようと、自分自身と周囲に宣言したのだろう。

(63)年々や猿に着せたる猿の面
空間的な広がりもなく、お面をかぶった猿だけをクローズアップ。

(62)旅に飽きてけふ幾日やら秋の風
「秋の風」が「旅に飽き」た芭蕉に旅立ちをうながしている。

(61)よるべをいつ一葉に虫の旅寝して
旅人芭蕉は、川下に流れていく虫を乗せた小舟に、たまらない旅情を感じたに違いない。

(60)石山の石より白し秋の風
ところで、芭蕉は北原白秋のことをまったく知らないのだが、白秋は芭蕉のことをよく知っている。

(59)死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮
芭蕉も木因も、落ちていく夕日の影となって舞台下手に去って行く。

(58)名月や座に美しき顔もなし
「美人と一緒に眺めたい名月の句」よりも「酔っ払い達と名月との対比の句」の方が、風雅ではないが俗な面白さがある。

(57)炉開きや左官老い行く鬢の霜
「老い」は、冬を前にして顕著になるものなのか・・・・・・・。

(56)「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」から「かれ朶に烏のとまりけり秋の暮」への改作
時が過ぎても、違う風景でも、カラスは飛んできて枯枝にとまり続け、秋の暮は繰り返される。

(55)「清滝や波に塵なき夏の月」から「清滝や波に散りこむ青松葉」へ改作
前作の改作は改作で、「辞世」とは別物なのではと思ったしだい。

(54)此道や行人なしに秋の暮
その道を行く自身の姿を、もう見ることが出来ないのかという無念のイメージが濃い句である。

(53)菊の香や奈良には古き仏達
この句が一枚の仏画となって、芭蕉の旅の終わりを飾っているようである。

(52)秋深き隣は何をする人ぞ
旅に病んで枯野にポツンと立った芭蕉には、実在の隣人も幻となったのだ。

(51)芭蕉の幻「行く春や鳥啼き魚の目は泪」
「おくのほそ道」に「幻」の影をちらつかせたのかもしれない。

(50)芭蕉の意志「痩せながらわりなき菊のつぼみ哉」
目に見える世界を17文字で表そうとする芭蕉であるから、もっといろいろな仕掛けがこの句に施されているかもしれない。

(49)芭蕉の慟哭「塚も動け我泣声は秋の風」
芭蕉は、自身よりも早く亡くなった若い一笑を、現実の死から、芭蕉の「劇」のなかへ蘇らせようとしているのではないだろうか。

(48)芭蕉の安堵と不安「あかあかと日は難面くも秋の風」
「旅の劇詩人」は低く呟いた。

(47)芭蕉の庶民感覚「きてもみよ甚べが羽織花ごろも」
庶民生活の代表的なイメージをピックアップする。それは、若き日の芭蕉の方法のように思える。

(46)うかれける人や初瀬の山桜
地上で、山桜に浮かれている花見客と、それを見下ろしている芭蕉の視点。その対比が、空間の広がりを感じさせているのではあるまいか。

(45)芭蕉が誘導する空間「月ぞしるべこなたへ入(いら)せ旅の宿」
芭蕉は、旅の同行者を宿へ案内していると同時に、この句を読む私たちをも芭蕉の旅の宿へ案内している。

(44)蕪村の内省と芭蕉の発散
「あはれなる」という蕪村の「内省」の言葉に対応するのは、「掻き起こされし」という覚醒の空間に放たれた「発散」の言葉。

(43)ネガティブをポジティブへ反転させる芭蕉のトリック「野ざらしを心に風のしむ身哉」
句の区切り方で、ネガティブをポジティブへ反転させてしまう芭蕉のトリック。

(42)「笈の小文」旅の終着は蛸壺
この空間感覚が、芭蕉の「劇」を立体的に、遠望的に、躍動的にしていると思う。

(41)須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ
悲しげな笛の音が、舞台から観客席に届く。

(40)ほととぎす消行方や嶋一つ
ホトトギスよ、お前も千鳥のように、淡路島へ渡り、絵島で月を見ながら鳴いておくれ。

(39)須磨のあまの矢先に鳴くか郭公
須磨の風雅な「有明の月」は残っているのに、まさか錆びた矢先で鳴くなんて。

(38)海士の顔先見らるゝやけしの花
自然を相手にしている漁師の険しい顔を、可憐な芥子の花と見間違えるほど、優美な月に照らされた明け方の須磨の風景は、風雅であることよ、というイメージの句であるような気がする。

(37)物足りない須磨の夏の月
月を見ても、満月ではなく、弓のような形の月なので、須磨の夏は、月を見るには物足りない時期である、というイメージか。

(36)芭蕉の旅の生活
旅に生きていれば、江戸の暮らしとは違って、こんなふうにシンプルなんだぜ、という感じもうかがえる。

(35)芭蕉が和歌の浦で追いついたものは何か?
それは過ぎ去っていく春であるとともに、私には、もうひとつの何かであるような気がしてならない。

(34)雉の鳴き声を聞いたら、父や母が懐かしくなった
「しきりに」という、細工のないストレートな表現に、芭蕉の、感極まった様子がうかがえる。

(33)新緑の森と苔清水の流れ
私たちは、私たちの記憶にある清水の情景を思い起こす。

(32)芭蕉、吉野で花見する
旅の途上句を詠みながら、吉野に着いた芭蕉は、花見に打ち興じる。

(31)芭蕉、吉野へ旅立つ
長く逗留していた伊賀・上野や伊勢を離れ、いよいよ、吉野へ向かう芭蕉ご一行。

(30)神垣やおもひもかけずねはんぞう
芭蕉が神宮を参拝することで、緻密で壮大な「劇場(天空)」と、個としての芭蕉の「劇場(地)」との対比が感じられて面白い。

(29)御子良子の一もとゆかし梅の花
汚れを払った清い童女達(御子良子)が、「神の存在」を示すシステムの奧で、幼いながらもその役を担っているということ。そのことに対して、芭蕉は憧憬を抱いているのだろう。

(28)いも植えて門は葎の若葉かな
荒れてはいても、「いも植えて」とくれば、生活の活力や活気が感じられる。

(27)梅の木に猶やどり木や梅の花
梅の古木に、若々しい梅の挿し木が宿って、ともに風雅な梅の花を咲かせている、というイメージかな。

(26)物の名を先づとふ芦の若葉哉
なんだか、謎かけ問答のようで、あまり面白く無い。

(25)此山のかなしさ告よ野老掘
このあたりのことが詳しい山菜採りよ、かつては立派だった菩提山神宮寺が廃墟になってしまった訳を、知っているなら私に伝えておくれ。

(24)裸にはまだ衣更着の嵐哉
芭蕉は、そういう閉鎖的な着物を捨てて、裸になりたいと思っていたのか?

(23)何の木の花とはしらず匂哉
私たちは、芭蕉の思想や、交友関係や、句が作られた背景を知らなくても、その句のイメージを感じ、楽しむことができる。

(22)さまざまのこと思ひ出す桜哉
桜は、季節を通り越した、思い出の象徴のような花でもあるのだ。

(21)丈六にかげろふ高し石の上
何もない石の台座の上に尊像を見出そうとすれば、芭蕉には、それが陽炎となって見えたのかもしれない。

(20)芭蕉の春の句
寒さが緩み、暖かい季節を待ち望む伊賀・上野の人々にとっては、心温まるメッセージである。

(19)二日にもぬかりはせじな花の春
新年に対する正月一日の「発句」が「二日にも・・・・」となってしまったが、「花の春」で締めたから、これはこれで、スタートの句として良いではないか、という心情も有りか。

(18)旧里や臍の緒に泣くとしの暮れ
芭蕉は、「つながる」というテーマを念頭において、この句を作ったのかも知れない。

(17)徒歩ならば杖つき坂を落馬哉
徒歩ならば、落馬などというトロい目にあわずに済んだものを。

(16)旅寐してみしやうき世の煤はらひ
それは、自宅で暮らしていた頃が懐かしいなぁ、という感じなのか。あるいは、浮き世の年末の行事なんかには縁の無い俺さ、という感じなのか。

(15)香を探る梅に蔵見る軒端哉
お呼ばれ句会に熟練の芭蕉は、してやったりとすまし顔。

(14)芭蕉の雪見の句
この年の一年前の、芭蕉43歳のときは、「月雪とのさばりけらし年の暮」と詠んだりしている。

(13)箱根こす人も有らし今朝の雪
クローズアップとロングショットの「対比効果」は、空間的な広がりの強調か。その広がりのなかで、ほっとしている芭蕉の姿が思い浮かぶ。

(12)磨なをす鏡も清し雪の花
地上の清い鏡と、天空の雪の花の対比が、とてもメルヘンチックなイメージを広げている。

(11)鷹ひとつ見つけてうれしいらご崎
天空の小さな鷹と、それを見守る岬突端に佇む小さな人影。
この句からも私たちは、芭蕉独特の「遠近法」を楽しむことができる。

(10)冬の日や馬上に凍る影法師
冬の厳しさのなかに身を置いている自身を、旅人としての生き方に照らされた影法師であると詩的に表現しているのではあるまいか。

(9)寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき
読者を誘導するのに巧みな芭蕉は、「寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき」の句で、天と地を対比させた「笈の小文」の旅に、「同行者としての我々読者」を誘導しているのかも知れない。

(8)京まではまだ半空や雪の雲
芭蕉の句には、天空を意識したものが多いと、このごろ考えている。

(7)星崎の闇を見よとや啼千鳥
そんな不安な闇を、千鳥が啼いて現実に指し示している図を芭蕉は描いた。

(6)旅人と我が名呼ばれん初時雨
旅の始まりに初時雨とくれば、「冬旅の劇」に緊張感が加わる。

(5)物いへば唇寒し穐の風
そういう艶やかなイメージは、もう道徳的な格言からは遠い存在だ。

(4)一家に遊女も寝たり萩と月
遊女も含めた秋の風景の、「遠近感」が描かれているようだ。

(3)古池や蛙飛び込む水の音
私達が平凡な日常と言えるのは、過ぎ去った体験でしか無い。

(2)閑さや岩にしみいる蝉の声
芭蕉の号令に従って、芭蕉の創造したイメージの世界に、鑑賞者が個々に着席するのだ。

(1)よく見ればナズナ花咲く垣根かな
芭蕉は「よく見れば」という「前の句(上句)」で、ナズナの存在感を消してしまうという手品を行っているのではないか?


■参考文献
「芭蕉年譜大成(新装版)」著:今榮藏 角川学芸出版
「芭蕉」 著:伊藤善隆 (コレクション日本歌人選034)笠間書院
「なぜ芭蕉は至高の俳人なのか」 著:大輪靖宏 祥伝社
「芭蕉のこころをよむ」著:尾形仂 角川ソフィア文庫
「おくのほそ道(全)」著:松尾芭蕉 武田友宏 角川ソフィア文庫
「悪党芭蕉」嵐山光三郎著 新潮社
「野沢凡兆の生涯(芭蕉七部集を中心として)」著:登芳久 さきたま出版会
「芭蕉の風雅ーあるいは虚と実についてー」著:長谷川櫂 筑摩書房

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